「病欠しなければ被爆死していた」ヒロシマを生涯問い続けた関千枝子さん 交流重ねた26歳女性の思い

2021年8月5日 12時00分
 病欠しなければ、同級生と被爆死していた―。1945年8月6日、13歳の時に広島で被爆したジャーナリスト関千枝子さんが今年2月、出血性胃潰瘍のため88歳で亡くなった。関さんが「私の若い友人」と呼び、交流を重ねた東京都新宿区の番組制作会社勤務、堀池美帆さん(26)は「関さんとの出会いで生き方や考え方が変わった」と振り返る。 (北條香子)

2017年8月6日、広島県立広島第二高等女学校の慰霊祭に出席した堀池美帆さん㊧と関千枝子さん=広島市中区で(堀池さん提供)

 昨年10月、堀池さんと食事中、関さんは「やけどの時って、案外トマトは痛くない。ミカンの缶詰はやけどの口にしみたかしら」と原爆投下直後、同級生を見舞った時のことを語り始めた。今も思い出すのか聞くと、関さんは「なんてひどいことをしたのかと、最近は悔いばかり」と答えた。堀池さんは「被爆の痛みや怒りを忘れないよう思い返しては考え続けることにこだわっていた」と語る。
 76年前の8月6日、関さんは腹痛で勤労動員を休み、爆心地から約3キロの自宅で被爆。約1キロ地点の屋外で建物を壊す作業をしていた県立広島第二高等女学校の同級生は、1人を除き2週間以内に全員亡くなった。「たまたま生き残った」罪悪感や「罪のない子らの命が理不尽に奪われた」ことへの怒りが活動の原点になった。毎日新聞記者を退職後の85年に出版した代表作「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」(筑摩書房)は遺族らを訪ね歩き、同級生1人1人の人生に迫った。
 60歳以上離れた2人の交流が始まったのは約10年前。関さんは「彼女が高校1年のとき、広島で出会い、原爆に興味を持っている近頃めずらしい女子学生ということで友人になりました」と書き残した。堀池さんが作った映像などに関さんが助言をする一方、共通の趣味の能楽を一緒に見に行った。
 関さんは年を重ねてなお「もっと自分にできることがある」と、2013年から毎年8月に広島でフィールドワークを実施。炎天下、被爆死した子どもたちの慰霊碑を巡った。堀池さんも同行し、関さんの言葉を映像に記録した。
 安倍晋三前首相の靖国神社参拝違憲訴訟などの原告に名を連ねた関さん。2度と原爆を人の上に落としてはならないとの思いからだ。「平和への思いを体現していた。厳しく強い人であると同時に優しさにあふれていた」と堀池さん。「年の離れた友人とか、おばあちゃんのようとは思えないほど大きな存在」。訃報を知ったときは言葉にならず、涙が止まらなかった。
 これまで8月6日は毎年、関さんと広島で過ごしてきた。関さんのいない今年も訪れるつもりだったが、新型コロナウイルスの感染拡大で取りやめた。「『第二県女』を読み返し、原爆投下時刻の午前8時15分には黙とうしたい」と考えている。

◆追悼集「『ヒロシマ』を原点に生きた人生」完成

有志によってまとめられた関千枝子さん追悼集「『ヒロシマ』を原点に生きた人生」

 原爆の日に合わせ、関さんと親交のあった人々による追悼集「『ヒロシマ』を原点に生きた人生」が完成。東京都立川市の元高校教員で、「ヒロシマ連続講座」を開いている竹内良男さん(72)の呼び掛けで、堀池さんも編集に加わった。
 約50人の追悼メッセージのほか、関さんの記事や講演録、「第二県女」を基にした朗読劇の脚本などを収録。A4判108ページ。一部1000円(送料込み)。問い合わせは竹内さんのメールへ。

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