<よみがえる明治のドレス・10>セーラー服 誕生から100年 原点は皇后の洋装推奨 大正期、女学生に普及
2021年8月6日 07時13分
女子中高校生の制服にセーラー服が採用されてから今年9月で100年となる。採用第1号は金城女学校(現金城学院中学・高校、名古屋市)。セーラー服誕生の経緯を探っていくと、明治期の美子(はるこ)皇后(昭憲皇太后)が発した洋装を推奨する「思召書」を原点とし、和服の改良服や体操着を経てセーラー服が普及していく過程も浮かんできた。
一九二一(大正十)年に撮影された二枚のモノクロ写真。一枚は、着物にはかま姿とセーラー服姿が混在する集合写真、もう一枚はセーラー服姿の七人が写っている。セーラー服だけの写真にも草履を履いた生徒の姿も見える。
一八八九(明治二十二)年創立の金城学院の制服は一九〇〇年、生徒たちの自主的な投票により、和服にはかまに決まっていたが、二〇年四月に入学した生徒たちに「作れる人は洋服にするように。型は自由」と当時の校長が薦め、二一年九月の二学期にセーラー服の着用を義務付けた。
生徒たちが参考にしたのは、米国からの宣教師で、校主代行として赴任していたローガン氏の娘二人が着ていた襟に三本の白線が入ったセーラー服だった。
日本大学准教授の刑部(おさかべ)芳則さん(日本近代史)が全国九百二十一校の記念誌などを調査した結果、それまで採用最古とされてきた福岡女学校(現福岡女学院、福岡市)より金城学院の方が三カ月早かったことが判明した。
金城学院では創立百三十周年記念事業として二〇一八年夏、日本最古のセーラー服を復元するプロジェクトを立ち上げ、約一年かけて仕上げた。復元の糸口は、百年前のセーラー服姿七人の写真だった。「制定された大正時代から連綿と継がれる金城学院の制服は、そのアイデンティティーの象徴です。本校の卒業生が制服に寄せる強い思いは今も昔も変わりません」と長屋頼子校長は語る。
セーラー服がなぜ、大正時代に高等女学生の制服となったのか。
刑部さんは「その原点は明治二十(一八八七)年一月に美子皇后が出した女子服制に関する『思召書』にある」と指摘する。
皇后の思召書では、古代の日本の女性は上衣の「衣(ころも)」と腰に着ける「裳(も)」を用いており、洋服と同じと説いている。動作や歩行に便利というのも理由に挙げた。
だが、思召書の対象者は、女性皇族や女性華族、高級官僚夫人などに限られ、女学生にまで洋服が普及するには三十年余の歳月を要した。
刑部さんによると、明治二十年前後の洋服には(1)価格が高く、(2)着づらくて健康を害する恐れがあり、(3)動作に優れていないという「三重苦」が伴った。これらを解決するため、着物の袖を短くしてはかまをはくという改良服が生まれた。この改良服は明治から大正時代の高等女学校生徒たちの通学服として普及した。
その一方で、明治末には体操服としてセーラー服が推奨された。一九一九年からの服装改善運動を受けて、洋式制服を制定する高等女学校が登場すると、セーラー服が人気となった。
「(1)女学生だと一目でわかる、(2)他のデザインよりも価格が安い、(3)作りやすくて『服育』に適していた、という『一石三鳥』があったからだ」。刑部さんは、人気の秘密をこう分析した上で、「思召書」との連続性の意義も指摘する。
「思召書では、女性の洋服は上下に分かれていることが強調されていたが、その意味でもセーラー服は合致していた。セーラー服は安価で、着やすく、運動に適しており、明治二十年前後の『三重苦』を克服することができた。思召書で推奨された女性の洋服着用は、セーラー服の普及という形で実を結ぶこととなった」
文・吉原康和/写真・松崎浩一
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