ヒロシマ出撃、捕虜になった父は核の犠牲に 廃絶願う娘「世界は何を学んだ」<原爆で死んだ米兵 ㊤>

2021年8月10日 06時00分

父アトキンソンについて語るシャロン・オルソン(中)。左は夫サム、右は娘リサ=米ワシントン州シアトルで(金杉貴雄撮影)

◆父のハグ知らぬ娘

 「本当に愛される人柄だったそうです」。米シアトルのシャロン・オルソン(78)は、父ヒュー・アトキンソンの記憶がない。父は1945年8月、米国が原爆を投下した広島で死んだから。アトキンソン26歳、シャロン2歳半の時だった。
 推計14万人の命を奪った史上初の原爆は、多くの日本人だけでなくその場にいた外国の人々にも襲いかかった。アトキンソンは広島で犠牲になった米軍捕虜12人の1人だった。

爆撃機「ロンサム・レディー号」の搭乗員。手前左端がヒュー・アトキンソン

 名前の「ヒュー(Hugh)」にちなんで「ハグ(Hug、抱きしめること)したくなるやつ」という意味の「ハギー」の愛称で呼ばれていたアトキンソン。だがシャロンにとっては、抱き締められた記憶もない写真の中の人だ。

◆投下9日前に撃墜、捕虜に

 最年少が19歳、ほとんどが20代だった12人が広島にいたのは偶然だった。原爆投下9日前の7月28日。米軍は広島から約20キロの呉軍港に係留中だった戦艦「榛名はるな」などの艦艇を爆撃機や空母艦載機で一斉攻撃した。この時、日本軍の高射砲などの反撃で22機が撃墜され、アトキンソンが乗っていたB24爆撃機「ロンサムレディー(孤独な貴婦人)号」などの搭乗員が捕虜となった。

1943年9月にアトキンソンに届いた徴兵の命令書。娘シャロンは生後11カ月だった

 米国が原爆投下先に広島を選んだのは、捕虜収容所がなく、米軍の捕虜がいないと判断したことも理由の一つだった。
 実際には、B29爆撃機「エノラ・ゲイ」が投下目標とした市中心部の「相生橋」から500メートルに、12人が収容されていた中国憲兵隊司令部があった。原爆は彼らのまさに頭上、地上600メートルでさく裂した。
 広島市の歴史研究家森重昭(84)は、被爆死した米兵について40年にわたり調査を続けてきた。森が直接聞き取った目撃証言などを総合すると、アトキンソンは原爆投下当日はまだ息があり、相生橋まで憲兵に連れてこられたがかなり衰弱しており、数日内にそこで死んだとみられるという。

◆はがきに「もうすぐ会えるよ」

日本に出撃する直前の父アトキンソンから幼いシャロンへ送られたハガキ

 「父は原爆投下直後、ひどい放射線があると知らなかったかもしれないが、恐怖を覚えるよりはよかった」。シャロンの手元には、日本に出撃する直前に父から送られたはがきが残っている。「こんにちは、私のいとしい女の子、元気ですか?もうすぐ会えるよ」。父を語る妻の心情を思う夫サム(82)からはおえつがもれた。娘リサ(51)は隣に寄り添った。
 アトキンソンの妻エバは、夫の死の知らせを受けた時、ショックで髪が全て抜けてしまった。3年前に97歳で亡くなったが、悲しみと怒りは深く、人生が狂わされたと感じていたという。

◆投下に疑問「他にできた」

 早期終戦につながったとの見方もある原爆投下だが「何か別のやり方ができたのではないか」。疑問はずっとシャロンの心から離れない。「核兵器は存在してほしくない。世界は何を学んだのか。今もあの悲惨な状況に向かい引き金に指がかかっている状態だ」
 遺族たちは別の問題でも苦しまなければならなかった。愛する人はなぜ、どのように亡くなったのか。その詳細がほとんど知らされなかったのだ。(敬称略、米ワシントン州シアトルで、金杉貴雄、写真も)

幼いシャロン・オルソンを抱えてほほ笑むアトキンソンと妻エバ(左)

 自国の原爆で犠牲になった米兵たちがいた。戦後76年、日米開戦から80年の今、遺族たちに話を聞き、原爆、そして戦争と平和について考える。

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