1945年8月10日 多摩送信所から終戦の第一歩 ポツダム宣言受諾、世界へ届けた 

2021年8月10日 07時01分

多摩送信所があった町田市の法政大多摩キャンパス。アンテナを支えた台が遺構として残されている。右は案内の碑

 一九四五(昭和二十)年八月十日、日本政府はポツダム宣言を受諾、三年八カ月に及んだ太平洋戦争はようやく終戦に至った。政府は宣言受諾を連合国側には外交ルートを通じて伝えたが、ニュースとしても世界に発信された。その発信を担ったとされる多摩送信所の遺構が町田市に残る。
 同市西部の広大な法政大多摩キャンパスの一角に、多摩送信所のアンテナ台石と碑がたたずむ。碑文には「本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社の隠蔽(いんぺい)送信所として多摩送信所の建設が着手された」とあり、「1945年8月10日から15日の間、日本政府のポツダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした」と刻まれている。
 同社(現KDDI)の社史(四九年発行)によれば、太平洋戦争の局面が悪化をたどった四四年初め、軍部などは「本土空襲の本格化は必至」として、同社に防空送信所の設置と最小限の送信機確保を要請。同社は爆弾に耐える耐弾式送信所を神奈川県西部の足柄に、隠蔽式送信所を多摩に計画。多摩は四五年四月に完成した。
 三方を山に囲まれた約三万三千平方メートルの敷地に局舎が点在。樹林間に隠蔽した空中線を巡らせ、主局舎に五十キロワットの電話送信機と二十キロワットの電信送信機を設置。電波送信上、地形的障害がない利点があり、終戦まで主として放送に使用。終戦後も約一年間、東南アジア向け電信放送に使用。四六年十一月に閉鎖された。

ポツダム宣言の電信を発信した「多摩送信所」の跡地がある法政大学多摩キャンパス=町田市で、本社ヘリ「あさづる」から

 宣言発表後も本土決戦を主張する阿南惟幾(あなみこれちか)陸相や陸海軍統帥部と受諾を求める東郷茂徳外相、米内(よない)光政海相らは対立。八月九日深夜からの御前会議で昭和天皇自らが和平を望み、十日未明の閣議で承認された。
 半藤一利氏の著書「日本のいちばん長い日」によると、十日午前七時、外務省は国体護持を前提に宣言を受諾する電報をスイス、スウェーデン公使を通じ連合国側に伝達。さらに同日午後七時、戦時中の通信社・同盟通信の短波(モールス放送)で受諾を全世界に放送した。ほとんどの日本人は十五日まで知らなかったが、世界のプレスなどはこの放送で戦争終結を知ったのだ。

多摩送信所の局舎=国際電気通信株式会社の社史から

 多摩送信所があった堺村(現在の町田市)の村誌には「海外放送は終戦前が一番活躍し、中でも終戦時のポツダム宣言受諾の意思を表明したのは、昭和二十年八月十日で実にこの送信所からであった」と記述。多摩キャンパスの建設予定地を調査した法政大学多摩校地遺構調査団の報告書(八八年四月)は対外放送施設は国内にはほかにもあり、「多摩送信所のみを特定して考えるわけにはいかない」と断定は避けるが、「対外放送で活躍していた多摩送信所の実績からみても、可能性はなかったものではない」とも指摘する。
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 十五日の終戦まで国内はなお激動の日々が続いた。
 十二日、連合国側の回答「subject(サブジェクト) to(ツー)」をめぐり、「隷属する」と訳し受諾拒否を求めた陸軍と、「制限の下におかれる」と解釈した外務省が対立。十四日、鈴木貫太郎首相は再度の御前会議で聖断をあおぎ、終戦に決した。翌日正午、玉音放送を通じて国民に終戦が知らされた。
 (取材協力・法政大HOSEIミュージアム、KDDI)
<ポツダム宣言> 1945年7月、米英ソの首脳が集まってドイツ・ベルリン郊外のポツダムで行われた会談で示された、米英中(後にソ連も参加)による対日降伏要求宣言。連合国による日本の占領、軍隊の無条件降伏と完全な武装解除、戦争犯罪人の処罰など13項目から成る。ワシントン時間7月26日夜(日本時間27日早朝)、サンフランシスコから放送された。
※おことわり 新型コロナウイルス感染症対策として、大学側は多摩キャンパスへの入構を制限しています。本紙は許可を得て撮影しました。
 文・加藤行平/写真・隈崎稔樹、加藤行平
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