戦争と表現者

2021年8月11日 07時40分
 もうすぐ七十六回目の終戦記念日。戦後生まれが八割を超え、体験を語る人たちも減る中、さまざまな形で「戦争」を表現する作品の持つ意味は年々大きくなる。表現者たちはなぜ戦争をテーマにしようとしたのか、作品にどのような思いを込めたのか。

<第2次世界大戦を描いた日本の作品> 小説では大岡昇平の『レイテ戦記』、五味川純平の『人間の条件』、大西巨人の『神聖喜劇』などが有名。映画では「ひめゆりの塔」や「野火」、アニメの「火垂(ほた)るの墓」などが反響を呼んだ。漫画では中沢啓治の『はだしのゲン』が幅広い年代に知られる。音楽では、「さとうきび畑」「戦争を知らない子供たち」などが今も歌われる。美術作品では、丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」が著名。

◆癒えぬ悲しみを歌う 歌手・森山良子さん

 「さとうきび畑」は、沖縄戦で父を失った子どもの歌です。お父さんに抱かれた夢を見て、どこにいるのと捜しても、そこには「ざわわ ざわわ」と、さとうきびの葉が風に揺れる音が鳴り響くだけ。深い悲しみがつづられています。
 作詞・作曲の寺島尚彦先生からこの曲をいただいた時、私は二十一歳でした。のほほんと育った私にとっては、全く知らない世界です。分かったような顔をして歌うのは、沖縄の人に失礼なのでは? とても私には歌えないと思いました。
 結局、一九六九年に発表したアルバムに収録されましたが、積極的に歌う気持ちにはなれませんでした。リクエストがあると歌ってみます。でも「全然、歌えていない」と感じていました。この歌から逃げるようになり、長い年月が流れました。
 九一年に湾岸戦争が起き、自衛隊が海外派遣されることになった頃、母に言われました。「こんな時に愛だの恋だのばかり歌うのはおかしいわよ。あなたには歌うべき歌があるじゃないの」。その通りです。今こそ「さとうきび畑」を歌わなければいけないと強く思いました。
 二〇〇一年に再録音し、ライブのために訪れた沖縄で、ある女性と出会いました。私と同年代の方です。「良子さん、『さとうきび畑』を歌ってくれてありがとう」と、涙を流しながら言ってくれました。その方のお父さんの時代は、きっと苦しく、悲惨な時代だったでしょう。もしかしたら彼女は、この曲に出てくる少女の一人かもしれない。そう思うと胸が痛み、抱き合って泣きました。
 若い頃の私は、人間は進化して世界は変わっていくだろうと考えていました。こういう曲を歌わなくてもいい世の中になると期待していました。でも、現実は違いました。いつも世界のどこかで戦争が起き、誰かと誰かが殺し合っています。
 「さとうきび畑」は、こんな言葉で終わります。「風に涙はかわいても……この悲しみは消えない」。大切な人の死は、心の奥深く、悲しみとして残ります。戦争で奪われた命なら、なおさらでしょう。戦争は悲しみしか生みません。癒やされることのない悲しみです。
 この曲が、いつまでも歌い継がれるよう願います。それは、あの戦争を「忘れない」ことにつながると思うからです。 (聞き手・越智俊至)

<もりやま・りょうこ> 1948年、東京都生まれ。67年に「この広い野原いっぱい」でデビュー。代表曲にミリオンセラーとなった「禁じられた恋」をはじめ「涙(なだ)そうそう」「さとうきび畑」など。

◆「一兵卒」として考える 映画監督・塚本晋也さん

 高校生の時、大岡昇平さんの「野火」に出合いました。僕が生まれたのは終戦からわずか十五年後ですが、日常で戦争の影を感じることはなかった。いろんな本や映画で戦争の恐ろしさを知ってはいたものの、本当に実感できたのは「野火」でした。当時、8ミリですが既に映画を撮っていたので「いつか映画にできたら」と思いました。
 劇場映画を撮るようになってからも、その思いは根底にあり続けました。何としても作ろうと思い立ったのは、戦争の痛みを体感した方々がいらっしゃらなくなり、戦争が急速に近づいてきたと感じてからです。
 僕たちは第二次世界大戦で、あんな恐ろしいことを二度としないために英知を傾けるべきだと学んだはず。特に日本では。ところが今、すごい勢いで日本を戦争できる国にしようという人たちが出てきた。でも、戦争になれば、そういう権力者は安全な所にいて、犠牲になるのは民衆である僕たち。そのことをいま一度、「野火」を通じて考えてほしいと思ったのです。
 とはいえ、僕は映画を政治的メッセージの道具にすべきではないと考えているので、あくまで芸術として、小説「野火」が描いた戦場を体感してもらう作品にしようと思いました。見た人それぞれが考えればいいと。
 二〇一四年に完成した作品では、僕が演じた田村一等兵の主観によるカメラワークを心掛けました。ほぼ田村の表情と彼が見える範囲の世界しか写っていません。敵は見えず、弾だけが飛んでくる。音響にも力を入れ、観客が戦場にいるような音に包まれることを目指しました。
 最初は観客にどう受け止められるか不安でした。起承転結があってカタルシス(精神的浄化)が得られるような作品ではない。実は、カタルシスがない恐ろしさこそが戦場なのですが。
 上映後、観客の多くが言葉にならないようでした。でも感じた何かを伝えたいという。そんな熱が広がって、今年も夏に三十館以上で上映されます。
 それでも、今の現実に向き合うと、どう考えるべきか分からず、もやもやするときがあります。世界の動向を考えると、日本の安全保障を心配する人たちがいるのも分かりますし。でも、そうした人たちの多くが権力者の視点で語るのには違和感がある。僕は戦場に送られ、殺し殺される立場で考えたいのです。 (聞き手・大森雅弥)

<つかもと・しんや> 1960年、東京都生まれ。89年、「鉄男」で劇場映画デビュー。同作品でローマ国際ファンタスティック映画祭グランプリ。「野火」の上映館は「野火 劇場情報」で検索。

◆実態描き後世に残す 漫画家・そやままいさん

 七月に発行された「北九州 戦争を次世代に伝えていく会」の漫画冊子第三弾「シベリア抑留を生き抜いて」で作画を担当しました。特攻隊員の遺書から戦争を考える高校の授業の様子を題材にした昨年の前作「最後の手紙」に続く依頼でした。
 漫画は鳥谷(とりや)邦武さん(94)=佐賀市=の体験に基づき、取材にも同席しました。陸軍の特別攻撃隊員に選ばれた経験を持ち、終戦後は一年半もの抑留生活を送ったと知って衝撃を受けました。戦争は終わっても、まだ生きるか死ぬかの壮絶な戦いは続いていたのです。見知らぬ私に丁寧に話す姿を見るうち、戦争そのものよりも彼の体験や思いを伝えたいとの気持ちに駆られました。
 陸軍の飛行学校に入った時は十六歳。「好きな飛行機に乗りたい」という夢をかなえるためでした。それが訓練を終えて部隊に配属されるや、「特攻を大々的にやる。希望者、一歩前へ」と言われ、生存可能性ゼロの作戦に疑問を感じつつも、前に出ざるを得なかったそうです。
 結局、特攻隊の解散で生き延びましたが、シベリアで過酷な体験が待ち受けていました。栄養失調もあり、倒れる仲間が続出。その最期を目にしつつ、いつか帰国できる日を夢見て、必死に木材の切り出しと貨車積みの作業を続けたといいます。
 漫画の最後は「私が今生きているのは選ばれたからではないと思っています」と締めました。読み手の皆さんはどう解釈するでしょうか。特に、当時の鳥谷さんの年齢に近い中高生の方にとって戦争が及ぼす影響を知るだけでなく、今後を生きるヒントにもなれば幸いです。
 私自身、もともとアジア太平洋戦争について高校の日本史の教科書程度の知識しかありませんでした。転機になったのは、二〇一七年刊行の「漫画特攻 最後のインタビュー」で作画をした時です。最初に原作を読んだ時は背景の想像すらできず、元隊員の方に写真を借りたり、本で調べたりしました。
 取材を通じ、戦争体験者の方々も今の若者のように何かしらの夢を持ちつつ、戦争による厳しい運命を受け入れざるを得なかったように感じます。彼らに寄り添い、その口調や表情、教科書にない戦争の実態を少しでも多く描けたらと思います。訃報を耳にするたび、孫世代として後世に体験を伝える責任が増すのです。(聞き手・加藤拓)

 1988年、兵庫県生まれ。本名・曽山舞。京都精華大マンガ学部卒。新聞で4こま漫画を連載し、京都三大祭りのPR漫画、明石商業高野球部や明石平和資料室のイラストなどを手掛けた。


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