戦場で「かわいそう」は通用しない 戦艦「武蔵」気象班 早川孝二さん(93)<20代記者が受け継ぐ戦争>

2021年8月12日 06時00分
戦後76年 ㊤ 千葉支局・鈴木みのり(24)

戦艦「武蔵」の模型を手に鈴木みのり記者(左)に説明する早川孝二さん。手前は、勝浦の部隊で支給された防毒マスクと、特攻兵器「震洋」などに掲げるために縫われた軍艦旗=千葉県南房総市で

◆甲板の遺体 見て見ぬふり

 太平洋戦争中、天気予報などの気象情報は軍事機密だった。1944年8月、世界有数の大型戦艦「武蔵」に乗り込んだ早川孝二さん(93)=千葉県の旧白浜町(現南房総市)出身=は、気象班の一員として機密情報を扱った。2月に入隊し、海軍航海学校で気象の初歩を学んで配属された。当時16歳。「乗組員約2400人のうちの最年少だった」と振り返る。
 気象班は毎朝、東京から送られたとみられる暗号化された気象情報を傍受。解読し天気図を作り、予報を艦長らに知らせる。班員5人で暗号と乱数表を見比べ読み解く。文字が細かく、手間暇かかったという。
 艦長らに伝えた情報に基づき、大砲の発射角度などが決められた。敵兵の死につながる情報を扱っていたことをどう考えたのか、早川さんに尋ねてみた。「何とも思わなかった。戦場では『かわいそう』なんて気持ちは通用しない」。諭すように返された。

早川孝二さんが17歳のころの写真

 実際、早川さんは乗船の2カ月後、死線をさまよった。フィリピン沖での「レイテ沖海戦」で、米軍機の猛攻撃を受け、武蔵が沈んだのだ。甲板には乗組員たちの遺体がいくつも横たわり、血を流し「痛いよ」と訴える人もいた。「自分のことで精いっぱい。見て見ぬふりをした」
 気象班の部屋で一緒にいた、仲の良かった同僚は爆弾の破片を浴び死亡した。早川さんも右腕に大けがをしたが、海に飛び込み、5時間以上後に駆逐艦に助けられた。身ぶり手ぶりを交えた早川さんの説明で、高校時代に授業で習った「レイテ沖海戦」の光景が初めて頭に浮かんだ。

◆敵機掃射は日常 「怖い」消え

 日本軍はレイテ沖海戦で大型軍艦の大半を失ったことを正しく伝えず、武蔵の沈没も伏せられた。生き残った乗組員の多くはフィリピンなどの戦線に送られ、死亡した人も。「何でも秘密にして都合の良いことだけ伝える。(政府は)国民の命なんか、どうでもよかったんだ」。けがをした早川さんは神奈川県内で、しばらく療養した。
 45年3月、千葉県勝浦市の部隊に配属された。本土決戦が叫ばれ、米軍を迎え撃つため、部隊には小型ボートに爆薬を積んだ特攻兵器「震洋」が配備されていたが、ボートはベニヤ板製で「これでは戦えない」と考えていた。
 早川さんは震洋の乗組員の訓練内容を決めるため、天気予報を担当した。気象情報の傍受のほか、機器を積んだ気球を飛ばして気象観測もした。上空を敵機が飛び、機銃掃射することもあったが、「日常茶飯事で、怖いという気持ちもなくなった」という。

◆海底眠る「武蔵」 重い口開かせ

 勝浦で終戦を迎え、戦後は郵便局に勤めた後、地元で青果店を営んだ。近所に戦争で亡くなった人の遺族がたくさんいたことなどから、長く自分の戦争体験を語ることはなかった。
 転機は、6年前に武蔵の船体がフィリピンのシブヤン海の海底で見つかり、近くの海上で営まれた慰霊祭に参列したこと。武蔵の気象班の部屋で亡くなった同僚を思い出し、涙が止まらなかった。「戦争は悪。若い人が身を粉にしても無駄になる」。早川さんは目を赤くしながら繰り返した。
 私が戦争体験者に取材するのは今回が初めて。当時の状況は今とかけ離れ、理解し難い部分があった。特に人々が疑問を持たずに戦争に加担する様子は、実感を伴わず、自分から遠いものと思った。それでも、早川さんの語り口に「伝えなくてはならない」との強い思いを感じた。今後も体験者の声に耳を傾け、自分にできることを考えたい。
 ◇  ◇
 戦後76年。戦禍の記憶の継承は年々難しくなっている。だからこそ、私たちは当時を生きた人々の証言を聞き続ける必要がある。今年も20代の記者たちが体験者を取材し、戦争について考えた。

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