戦争と勝鬨橋(上) 戦時下でも異例の完成 臨海部の開発託すも…

2021年8月12日 07時03分

隅田川左岸から見た勝鬨橋=中央区で

 隅田川の下流部に位置する勝鬨(かちどき)橋(中央区)。一九四〇年、国内最大の可動橋として建設され、隅田川の橋の中でも人気が高い。日中戦争が長期化し、物資を国が根こそぎ統制する国家総動員法の下、都心部では戦時下で完成した唯一の大型橋梁(きょうりょう)だ。背景を探ると、当時の東京の事情が浮かび上がる。
 全長二百四十六メートル、幅二十二メートル。可動した中央部はシカゴ型双葉式跳開橋、固定部は鋼タイドアーチ橋と言われる形式。上流部と東京湾を船舶が通過できるように開閉式に。橋桁は七〇度まで開き、所要時間は七十秒だったという。橋の完成前、この地には日露戦争(一九〇四〜〇五年)の勝利を記念して名付けられた渡船「勝鬨の渡し」があり、橋もその名を受け継いだ。
 二九年、東京市議会で建設予算が認められて架橋が具体化し、三三年着工。三一年に完成した月島四号埋立地(現在の晴海地区)やその先にある豊洲へのアクセス橋として重要な役割が期待された。

中央部が開橋した勝鬨橋を船が通過している=中央区立京橋図書館提供

 しかし、三一年に関東軍による満州事変が起き、次第に軍部の力が強まっていった。三七年七月には日中戦争が勃発、解決のめどが付かないまま戦線は拡大。総力戦体制を確立するため三八年、国家総動員法が成立した。
 全国の橋に精通する紅林章央(くればやしあきお)・都道路整備保全公社橋梁担当課長は「兵器増産のあおりを受けて鉄の入手が困難になった」と指摘。戦略物資の鉄は国の統制下に置かれ、「全国で鉄の橋は次々と建設が中止され、鉄の欄干は木製に置き換わった」と紅林さん。
 勝鬨橋も鉄で造る予定の欄干は石で代用。当時の新聞には「受難続きの勝鬨橋、開通また延期」などの記事が載り、資材入手の難しさをしのばせる。四〇年にようやく完成したが、ほぼ同時期に工事が進む予定だった大型橋の曙(あけぼの)橋(新宿区)は中止、完成は戦後の五七年に持ち越された。
 なぜ勝鬨橋だけが逆風下で完成したのか。四〇年は紀元二千六百年に当たり、月島四号地で国家的行事の日本万国博覧会の開催が予定されていたからだ。中央区教委図書文化財課の学芸員、増山一成さんは「平和な日本、豊かな文化、関東大震災からの復興、水辺にあふれる博覧会会場は軍事色を出すことなく、日本を世界にアピールする機会だった」と万博の狙いを説明。勝鬨橋は会場への重要なアクセス橋だった。元都副知事の青山佾(やすし)明治大学名誉教授は「経済発展的に大変貴重な橋だった」と強調する。

橋の開閉を行った操作室。航行する船に通航可否を知らせる信号が壁面に付いている

 しかし橋の完成を待たず、日中戦争のため万博は三八年七月、「延期」が決定した。
 七〇年十一月二十九日を最後に開橋は中止に。モータリゼーションが進み開橋に伴う交通渋滞の激化、通航する船の減少が理由だ。東京五輪決定を機に、各方面から「再び開閉できないか」との声が高まり、都が橋を調査したが、電気設備などが故障しており、再開閉は不可能と分かった。
 九三年に誕生したお台場と芝浦地区を結ぶレインボーブリッジ。お台場では九六年に世界都市博覧会が開催予定で、同橋は開発の進む臨海地区へのアクセス橋だった。しかし都市博は中止に。当時、都庁内では「勝鬨橋と似ている」と両橋を重ね合わせる声があったという。皮肉な歴史の繰り返しなのか。
<国家総動員法> 日中戦争(1937年7月勃発)の拡大に伴い、軍部の強い意向を受け第1次近衛文麿内閣時の38年に成立。資源、資本、労働力、貿易、運輸などあらゆる経済部門を国家の統制下に置き、言論もその対象に。国民生活の隅々まで制限する権限を国に与えた。法案審議中、委員会に出席した陸軍省軍務局の佐藤賢了中佐が、発言した議員を「だまれ」と一喝する舌禍事件も起きた。
文と写真・加藤行平
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