終戦の日の靖国神社「戦前の空気そのまま」 重い口開いた元特攻隊員らの思い<つなぐ戦後76年>

2021年8月15日 06時47分

◆元特攻隊員の男性(94)八王子市 権力者止めるのは民衆の声
 政治無関心の日本人「緊張感を」

戦時中の経験を語る元特攻隊員の男性=あきる野市で

 旧日本海軍の特攻隊員だった男性(94)=八王子市=が、匿名を条件に戦時中の体験を初めて本紙に語った。軍国主義の考え方を経て、戦後に平和主義に転じた男性は「民衆の強い声があってこそ、戦争に突き進もうとする権力者を止められる」と訴える。(竹谷直子)
 男性は一九四三年秋、海軍飛行予科練習生(予科練)に志願し、三重県香良洲(からす)町(現津市香良洲町)の三重海軍航空隊に入隊した。旧制中学五年の時だった。
 訓練では、遠泳やアメリカンフットボールのような競技もこなし、体力をつけた。上官の暴力は日常的だった。週に一度は「軍人精神注入棒」と書かれた直径約十五センチの丸太で殴られた。異議を唱える空気はなかった。「殴るのに合理的な理由なんてありません。教官たちはバケツの水で手を冷やしながら交代で全員を殴った。『ありがたいと思え』と言われ、明るい気持ちで応じていた」
 四四年後半になると、新聞は日本の優勢を伝えていたが、うわさなどで戦局の悪化と米軍が南方から攻め込んでくる雰囲気を感じていた。特攻隊員が乗る航空機はなくなり、練習機も九州へ持って行かれた。
 四五年春に人間魚雷「回天」への志願を求められると、自身を含む練習生のほぼ全員が進んで手を挙げた。数は限られ、名前の五十音順で乗ることに。
 別の練習生からは「死ぬ前に家族に会いたい。事故に見せ掛けてけがをさせてほしい」と頼まれ、右手に石をぶつけて複雑骨折させた。自身も「早く乗りたい」と考えていたが「お国のために死ぬことが良しとされ、国民全体が洗脳されていた」と振り返る。
 同年九月に回天に乗る予定だったが、その前に鈴鹿海軍航空隊(三重県鈴鹿市)で終戦を迎えた。
 戦後は大学に進学し、民主主義の風を感じたことで「少しずつまともな人間に回復していった」という。練習生の仲間から何度か集まろうと声が掛かり、皆は戦前の日本を懐かしんでいた。戦時中の経験を長年語らずにいたのは「仲間に裏切り者ととられる」と考えたからだ。「終戦の日に靖国神社に行くと戦前の空気そのままで、軍国主義の精神はまだ続いている」と指摘する。
 一方で、自身の経験から「無関心の上に平和は成り立たない」との強い思いがある。男性はこう語る。「政治に対する無関心が続き、平和ぼけとされる今の日本は危険。もう少し緊張感を持った方がいい」

◆藤原日出さん(88)川崎市 「平和の俳句」に願い 2度の空襲「戦争は罪悪」

 杳(よう)として 戦時の闇や 揚花火

「焼け跡で山賊のように暮らした」と振り返る藤原日出さん=川崎市宮前区で

 終戦から七十六回目の夏も、多くの人が平和の願いを俳句に託しました。目黒不動尊(目黒区)近くの理髪店で育った藤原日出(ひで)さん(88)=川崎市=も、そのお一人です。「平和の俳句」に込めた思いを伺いました。
 藤原さんは、目黒高等女学校(現・都立目黒高校)に入学直後の一九四五年五月、B29の空襲を二度受けた。当時まだ十二歳。それでも近所の小さな子を背負い、焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ際のヒューン、ヒューンという音を聞きつつ逃げ惑った。家は焼けた。
 「命拾いして明るくなると、本当に何もない焼け野原。それからしばらくは山賊のような生活だった」
 近所の人が、焼け残りのコメや塩を、どこかの店からこっそり持ってきた。水道はどういう訳か出っぱなし。落ちていた金属製の洗面器に水をためてコメを炊いた。藤原さんがご飯に塩を振っておにぎりにした。知らない人が何人も集まり、黙々と食べていた。
 ドラム缶が共同風呂になり、落ちていたトタンを屋根にした。「五月なのに明け方は寒くて寒くて」。川に落ちて濡(ぬ)れていた布団を拾い、干して使った。
 富士山の御来光を見た感動から「日出」と名付けてくれた父は、藤原さんが四歳の三七年に中国戦線で戦死。夫婦で営んでいた理髪店と、藤原さんと弟の暮らしは、母ひとりが支えた。「戦争は罪悪。泣くのは女、子どもだと思う」
 平和が訪れても、花火を打ち上げる「ヒュー」という音を聞くと、空襲の記憶がよみがえる。「戦時の経験は人生の肥やしになった。でも思い出すと、心にぼんやりと闇が広がるような感覚になる」(梅野光春)

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