<つなぐ 戦後76年>終戦の日「当たり前の大切さを」 川崎市の中野さん 空襲伝える紙芝居、コロナで披露できず

2021年8月15日 07時10分

戦争体験を紙芝居で伝える中野幹夫さん=中原区で

 高層マンションが林立する武蔵小杉駅周辺は七十六年前、米軍の激しい空襲にさらされた。地域に集積する軍需工場が標的になった。地元でも知る人が少なくなった戦火の記憶を、中野幹夫さん(86)=中原区木月祇園町=は手製の紙芝居で子どもたちに伝えてきた。新型コロナウイルスで学校を訪れる機会が失われた夏。記憶の継承を心配しながら「当たり前の暮らしの大切さを知ってほしい」と訴える。(中山洋子)
 友達と小枝でパチンコをつくって遊んでいた一九四四年十一月一日。中原区の住吉国民学校(現在の市立住吉小)の上空を豆粒のような飛行機が悠々と通り過ぎていくのが見えた。
 「日本の飛行機だと思っていたんですよ」。まもなく高射砲が放たれ、敵機と気付いた。国民学校の三年生だった中野さんが初めて見たB29爆撃機だった。
 十一月一日以降、マリアナ諸島のサイパンから相次いで飛来したB29は膨大な偵察写真を撮影している。同二十四日から始まる東京や川崎への空襲にはその写真が利用された。中野さんが見たのは、昼夜もなく続く空襲の始まりを告げる機影だった。
 四五年三月十日の東京大空襲も、自宅の窓から兄とともに見ていた。多摩川の向こうが真っ赤に染まり、B29の大群が焼夷(しょうい)弾を落としていくのが見えた。
 東京を焼き尽くした焼夷弾は、軍需工場が密集する中原にも襲いかかる。中野さんの自宅近くにあった東京航空計器の工場も標的の一つだった。四月十五日の川崎大空襲の夜、自宅裏の畑に掘った防空壕(ごう)に家族で逃げ込み、目と耳をふさいで爆撃がやむのをひたすら祈った。「ぶーんとうなりながら低空飛行するB29の音、ザーッと降り注ぐ焼夷弾の音の恐ろしさは、忘れることができない」
 壕の外に出ると、東京航空計器の工場が紅蓮(ぐれん)の炎を上げていた。火勢のすさまじさに震えが止まらなかった。
 翌月、伊勢原市の大山阿夫利神社周辺に学童疎開したが、栄養失調でやせ細り二カ月で自宅に戻った。終戦の日、玉音放送を聞いた近所の大人が「どうやら負けたらしい」と言う。空襲に疲れ切っていた母親は「今夜から電気をつけて寝られる」とつぶやいた。
 中野さんは、十五年ほど前から、地元の小学校で手製の紙芝居を使って戦争体験を伝えている。
 日本の勝利を信じていた軍国少年は、戦争をしないと決めた新憲法に「良かった」と心から安堵(あんど)した。戦争とは、飢えと恐怖でしかなかった。
 戦争の苦しみを知る住民がいなくなることに焦燥感を募らせながら、あの日々が二度と来ないことを願う。「戦争は人間を動物にする。次代の子どもたちには経験させたくない。いつまで話せるか分からないが、食べ物があり、家族と暮らせる当たり前の毎日の大切さを伝えたい」
<川崎の空襲> 市内への初空襲は1942年4月にあり、市南部で34人の犠牲者が出た。45年から本格化し、4月15日夜の川崎大空襲では市中心部や軍需工場が密集する南武線沿線地域は壊滅的な被害を受けた。8月まで続く空襲で市内では約1000人が死亡、その大半が大空襲の犠牲者とされる。東京航空計器の工場は米軍に接収され、1975年に全面返還。跡地に中原平和公園や市平和館がつくられた。

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