五輪後の東京 早川由紀美・論説委員が聞く

2021年8月24日 07時18分
 一九六四年に続く二度目の東京五輪は、新型コロナウイルスの感染が拡大する中、開催することだけが目的化した異例の大会でした。不祥事も相次ぎ、大イベントがもはや成長の「起爆剤」とはならない現実を突きつけています。社会学者の吉見俊哉・東京大教授と一緒に、今後、東京が歩むべき方向性について考えました。

<1964年東京五輪> 59年の国際オリンピック委員会(IOC)総会で米デトロイトなどを破り、開催地に選出された。64年10月10日から24日までの15日間にわたり開催。大会後にパラリンピックも開催された。大会に合わせ、東海道新幹線や東京モノレールが開業。首都高速道路や、環状7号などの幹線道路の整備も進んだ。

◆「遅さ」と「質」を目指す 社会学者、東京大教授・吉見俊哉さん 

 早川 二回目の東京五輪はほぼ無観客で、東京にいても開催の実感すら湧きませんでした。
 吉見 歴史上最も失敗した五輪の一つとして名を残すかもしれません。コロナのせいもありますが、それ以前からザハ・ハディドさんが設計した新国立競技場案の白紙撤回など幾つもけちがついていた。失敗の根本は何にあるのかというと、なぜ東京は五輪・パラリンピックをやろうとするのかという議論がないままスタートしてしまったことに尽きます。やるべき理由、人類の未来や東京の将来へのビジョンが出発点で共有されていたのか。この五輪に、そもそもビジョンはあったのでしょうか。
 今回の出発点は二〇一一年の四月です。石原慎太郎さんが都知事選で四選を果たしますね。その翌月に五輪招致にもう一回挑戦すると言うんです。その時に理念の議論とか都民との合意とかは何もないですよ。
 五輪を東京がまたやりたくなった背景には三つの要因があります。一つは一九六四年の東京五輪の成功神話です。九〇年代半ばから経済が停滞、衰退を続け、あの輝かしい日本の六〇年代をもう一回思い起こす流れが中高年を中心に起こる。
 二つ目は世界都市博覧会の中止です。鈴木俊一都政が開催を計画していましたがバブルがはじけて頓挫した。湾岸の基盤整備に大規模予算を投じ、一気に再開発を進めるのが目的でした。最終的には九五年に当選した青島幸男知事が中止を決断した。五輪招致は、この時の挫折を挽回する目的がありました。
 三番目はお祭りドクトリン(政治などにおける基本原則)です。ジャーナリストのナオミ・クライン氏は米国の乱暴な政策転換がテロや災害など強烈なショックに見舞われた時に行われていることをショック・ドクトリンと呼びました。日本では五輪や万博など国を挙げてのお祭りが物事を進める理由にされます。日本人はお祭りに弱いのです。
 理念もビジョンもない中で、あるように見せかけに使われたのが復興五輪という言葉です。
 早川 復興五輪という言葉は罪深いですね。福島の避難者からは「五輪招致時に、当時の安倍晋三首相に『(福島の状況は)コントロールできている』と言われたことで、私たちは二〇二〇年に向けて解決されるべき存在になった」という声も聞きました。復興に取り残された人を逆に追い詰めています。
 吉見 東北の復興と東京の発展は背反します。人口減少期に入った日本では地方の大都市でも人口は減り始めています。しかし、東京だけは膨張を続けたのです。
 この東京の膨張による被害を最も強烈に受けてきたのは東北です。福島に、なぜ原発が建てられたかといえば、東京への電力の供給基地だったからです。東北は、人材も資源も製品も、基本的に東京に吸収されてきた。その東京で五輪をするということは、東京をさらに立派にすることです。もし、東北の復興を本当に願うのだったら、東京の大きすぎる力を抑えることの方が助けになる。
 早川 著書『東京復興ならず』では、東京が「開発と膨張」とは異なる選択を取り得る機会は少なくとも二度あったと指摘されています。
 吉見 はい。まず戦時期から敗戦後にかけてです。空襲で廃虚となった跡にどういう都市を造るかという時に、必ずしも巨大都市化を目指していたわけではない。戦後すぐのころの国土計画や都市計画では、もっと都市を分散化しようと考えていたし、首都の人口は一定数制限していこうと考えていました。文化を軸とした大学都市、学芸都市をいろんなところに造っていこうという計画もありました。
 もう一つの機会は、七〇年代末の大平正芳政権です。七九年の施政方針演説で、大平首相は経済成長から文化的成熟に、日本は目指す方向を変えていくのだと宣言しました。集中から分散へということも言いました。
 この方向が実現していたら、八〇年代、九〇年代の日本のあり方はずいぶん違ったんじゃないかとも思います。でも、大平さんはまもなく亡くなり、中曽根康弘政権(八二〜八七年)は集中を容認する新自由主義に向かいました。東京の人口はますます膨張していった。
 今回のコロナで三回目の変化の兆しが出てきている。オンライン化が進みオフィスが外に出ていき、郊外に家を求める動きが出てきている。巨大化とは違う流れが出てくるかもしれない。ポスト五輪とポストコロナ、ポスト福島は構造的に同型性を持っていると思います。今回の東京五輪の挫折は、六〇年代型の成長主義でやっていくことの限界を示しています。
 早川 ポストコロナ、ポスト福島も都市の一極集中の是正を促していますね。
 吉見 より速く、より高く、より強くではなくより愉(たの)しく、よりしなやかに、より末永くが未来に向けたビジョンだと思います。
 本来は今回の招致の前に前回の五輪の功罪を検証することから始めなければいけなかった。そこで失われたものは何なのか。川の上に高速道路が巡らされることで水辺との関係が見失われ、ほとんどの都電が姿を消してしまった。ゆったりとした時間が失われ、地方とのバランスが崩れていった。
 五輪の成功で世界に冠たる都市になったんだと思い続けることは、私たちを決して幸せにしません。スロー(遅さ)とクオリティー(質)を目指す都市に東京を変えていくべきです。
 早川 スローダウンしていくためには、どんな道筋が考えられますか。
 吉見 一つはスローモビリティーの東京を実現していくことだと思います。具体的には時速十五キロ以下のスピードが大切です。路面電車や自転車、ボートも大体同じくらい。都市から自動車道を削減していくことが必要です。スペイン・バルセロナなど世界の都市はそちらの方向に向かっている。
 路面電車だったら外を見ていてすてきなカフェとか見つけたら降りて行くことができる。見られることで街全体が美しくなっていくはずです。
 人間は成功したと思い込むと同じ事を繰り返そうとする。しかし、失敗からはより多くのことを学べます。六四年の東京五輪を失敗の経験、喪失の経験として受け止める感性を持たない限り、未来への回路が見えてこないんじゃないでしょうか。

<よしみ・しゅんや> 1957年、東京都生まれ。東京大大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。同大大学院情報学環教授。著書に『五輪と戦後』(河出書房新社)、『東京復興ならず』(中央公論新社)、『東京裏返し 社会学的街歩きガイド』(集英社)など。

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