尾翼は物語る 調布飛行場近くの民家で76年保管

2021年9月2日 07時06分

旧家に保管されていた一〇〇式司令部偵察機の尾翼=府中市で

 戦後76年間、調布飛行場(調布、府中、三鷹市)近くの府中市の旧家で保管されていた旧日本陸軍の航空機「一〇〇式司令部偵察機」の水平尾翼が今夏、初めて一般公開された。どんな命運をたどった機体の尾翼なのか。同市や専門家による調査で少しずつ明らかになってきた。

尾翼を保管していた戸井田和義さん=府中市で

 「父は戦時中、空母に乗船し、いつも飛行機を目にしていたんです。懐かしさもあって取っておいたのでしょう」。尾翼を所有する府中市の会社員戸井田和義さん(64)=写真=はそう切り出した。長さ約二・三メートル、付け根の幅約一メートルのアルミ合金製。八月四〜十日、同市の「平和展」で初めて展示された。
 江戸時代から続く農家だった戸井田家は、かつて調布飛行場近くに広大な畑を持っていた。父の義三さん(故人)は空母「天城(あまぎ)」などで見張り役を務めた後に帰還。終戦直後に畑に落ちていた尾翼を持ち帰り、土蔵で保管していた。義三さんから「戦闘機の尾翼」と聞いていたが資料はなく、正体は分からなかった。

藤原洋さんが終戦直後に調布飛行場で撮影した「一〇〇式司令部偵察機」。垂直尾翼に「37」と記されている(藤原さん提供)

 戦後もしばらくの間、戸井田家の畑には、米軍の空襲から航空機を守る格納施設「掩体壕(えんたいごう)」があった。戸井田さんは「幼いころは尾翼の上で跳びはねたり、掩体壕に上ったりして遊んだものです」と笑った。
 調布飛行場は戦時中に旧陸軍が使用。今よりずっと広く、東京の防空拠点だった。空襲が激化した戦争末期の一九四四年、飛行場と周辺にコンクリート製で屋根付きの「有蓋(ゆうがい)掩体壕」約三十基、周囲に土を盛った「無蓋(むがい)掩体壕」約百基が造られた。戦後に多くは取り壊され、現存するのは四基のみ。市史跡「旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕」は十一月三日(文化の日)に内部が一般公開されている。

旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕について説明する府中市ふるさと文化財課の石田一博さん=府中市で

 戸井田さんは昨年、土蔵の解体後に自宅で保管していた尾翼の調査を市に依頼。当初は「一式双発高等練習機」と推測されたが、イギリス空軍博物館にある実物の資料などと比較して「一〇〇式司令部偵察機」の右側の水平安定板と特定された。最近、新たな展開があった。終戦直後に撮影された同じ機体とみられる写真があったのだ。

◆同一機体 撮影か

終戦直後の調布飛行場の様子を語る藤原洋さん=町田市で

 撮影者は、元運輸省航空事故調査委員会首席調査官で航空ジャーナリスト協会顧問の藤原洋さん(93)=町田市。都立航空工業専門学校一年の時に終戦を迎えた。
 「敗戦で軍用機は廃棄処分される。その前に見ておきたい」。藤原さんは終戦から二日後の八月十七日、同級生と二人で中島飛行機三鷹研究所(三鷹市)に潜入し、最新鋭の機体を目に焼き付けた。その足で調布飛行場を訪れ、複数の軍用機が放置されているのを確認。日曜ごとに当時暮らしていた千葉市の自宅から飛行場に通い、友人に借りたカメラで機体を撮影した。
 武装解除で軍用機はプロペラなどの部品が取り外されていた。住民がガソリンを抜き取り、部品を取り外す様子も目の当たりにした。「当時は満足に食べることもできず、皆が生きるのに必死だったんです」
 機体の照合の手掛かりは尾翼の表面に記された部品番号だった。劣化して消えかかっていた番号は「437右」と判明。写真と同じ「37号機」を表しているとみられ、藤原さんは「同じ機体の可能性は極めて高い。尾翼の実物を見てみたい」と話す。
 この機体の由来はまだ多くの謎に包まれている。写真の尾翼にあるマークの部隊は大阪府八尾市の大正飛行場(現八尾飛行場)に所属していた。調査を担当する市ふるさと文化財課の英(はなぶさ)太郎さん(58)は「本来は調布飛行場にあるはずのない機体。なぜここにあったのか、理由を探りたい」。
文・服部展和/写真・市川和宏 服部展和
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