満州抜きでは語れぬ 満州事変から90年 実像追い続ける 鈴木貞美さん(国際日本文化研究センター名誉教授)

2021年9月11日 12時57分
 昭和初期、中国東北部にあった満州国。儒学を基本思想とし、多民族の共存をうたったが、わずか十三年半で姿を消した。満州国はなぜ起こり、何を残したのか。国際日本文化研究センター(日文研)名誉教授で日本文化史研究が専門の鈴木貞美さん(73)は、その実像を追い続けている。満州を抜きにして日本史を語ることはできない、との思いからだ。
 今から九十年前、一九三一(昭和六)年九月十八日、奉天(現瀋陽)郊外で南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破され、満州事変が勃発した。日本軍の出先機関である関東軍の謀略だったが、軍は中国側の仕業として主要都市を制圧。翌三二年三月に満州国建国が宣言され、清朝最後の皇帝溥儀が「執政」に就いた。
 近著『満洲国 交錯するナショナリズム』(平凡社新書)で、専門の文化文芸に加え、政治や経済分野からも光を当て、満州国の全貌をとらえようと試みた。新聞や資料をつぶさに読み解いて得た新説も加わり、謎の多い独立国家の全体像が見えてきた。
 当初は満州の占領を目指した関東軍を思いとどまらせ、独立国家建設に方針転換させたのは誰か、これまではっきりしていなかった。当時朝鮮総督に就いていた宇垣一成が日記で、占領を止めさせたと書いていたのを発見。宇垣の日記は、作家の武田泰淳が戦後、著作『政治家の文章』で扱っており、以前から注目していた。「このままいっちゃいかんから指令を出したと、はっきり書いてある。朝鮮総督時代の日記なので、満州研究者はノーマークだったのでしょう」
 また建国に奔走した中国側の勢力の動向も詳しい。関東軍が占領を諦めると、旧清朝帝政派、関東軍と敵対した軍閥から寝返った地元実力者、蒙古族の王らが激論を重ねて、建国宣言の作成までこぎつけた。関東軍は彼らを頼り、乗っかっただけとなると、同軍の「でっち上げ」とばかり語られる満州国像は揺さぶられる。
 東京大文学部仏文科を卒業後、文芸評論活動を経て、研究の道に転じた。明治以降の日本の文芸を掘り下げ、近現代の日本人の精神史をたどった。日文研に在籍中、中国の日本文学研究者、呂元明氏と出会い、満州に導かれた。満州で青年期を過ごした呂氏は、中国文化から取り残された満州で、中国人が詩や小説を書き始めたのは、日本人が入ってきてからだ、と語り、民族を超えた文化交流が盛んだった往時をしのんでいた。「満州の文化を知るためには政治や経済の政策全般にも取り組まなければ、と教えられた」と振り返る。
 日本が満州に進出するのは、日露戦争後の講和条約でロシアが持っていた権益を引き継いでから。満州国の前史といえるこの時代から、満鉄は沿線開発を本格化。本社のある中心都市の大連で、メリーゴーラウンドなど電動遊具を備えた公園をつくった。建国後も、環境保全を考慮に入れた自然公園を設計したりした。満鉄には優れた技術者が多く、当時のヨーロッパの最新の技術を盛んに取り入れていた。
 沿線は都市ガスやプロパンガスが普及していたという。ライフラインの整備を伴う新都市計画はその後、朝鮮や内地にも導入された。歴史学や民族学など学術分野や、俳優ら芸能関係者で満州を経験し、戦後に名を成した人は多い。「日露戦争以後の日本の近現代史や文化は満州なしでは考えられない」。歴史の空白を埋める強い決意をにじませる。
 一方で、満州国を承認し日本は国際的に孤立。ドイツ、イタリアと連携してファシズム陣営に連なることになった。関東軍の七三一部隊が研究した細菌戦のデータを、アメリカがベトナム戦争時に参考にしたことなど、満州が教える負の教訓にも向き合い、反省すべきだという。
 絵画やスポーツの流行など『満洲国』で触れられなかったテーマもある。それらすべてを盛り込んだ『満洲事典』(ちくま学芸文庫)の刊行を、編集委員の一人として準備している。満州を知ることは今を知ることにつながる。 (栗原淳)

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