<よみがえる明治のドレス・11>西洋での見聞、装いに反映 皇后のスタイリスト・香川志保子 父と二人三脚 洋装化に揺れる皇室支え

2021年9月17日 07時06分

香川志保子が英国留学中の1887(明治20)年4月、ロシア・サンクトペテルブルクで撮影した洋装写真

 明治天皇の后(きさき)、美子(はるこ)皇后(昭憲皇太后)の洋装に関するアドバイザーを務めた側近女性がいた。皇后を支える事務方トップの皇后宮大夫、香川敬三の長女志保子。英国留学中から敬三の相談相手となり、帰国後、皇后の通訳(英語)兼洋装担当の御用掛(ごようがかり)として、可視化された近代的な皇后像の演出に貢献した。皇后のスタイリストだった女官の知られざる素顔を見ていくことにしよう。
 「西洋文明を受け入れて急速に変化していく皇室を、茨城県出身で皇后側近トップを務めた香川敬三と、皇后のスタイリストだった娘の志保子の二人が支え続けた。その足跡の一端を知ってもらえれば」
 来年二〜四月、香川親子の活動にも光を当てた特別展「華麗なる明治−宮廷文化のエッセンス」を開催する茨城県歴史館の主任研究員石井裕(ゆたか)さんは、こうアピールする。
 特別展では、皇室ゆかりの資料を中心に皇族や華族女性、女官などの宮廷衣装も展示する予定。長さ約二・六メートルに及ぶ志保子着用の大礼服のトレイン(引き裾)のほか、明治末期−大正初期のヴィジティングドレス、洋行中の和・洋装姿の古写真なども展示する。

香川志保子が着用した大礼服はトレイン部分のみ伝わる。長さは約2.6メートルに上る(いずれも茨城県歴史館蔵)

 志保子は一八六二年、水戸藩郷士だった敬三の長女として誕生。二十二歳の時の八五年、希望して英国に私費留学。八六〜八七年、視察のため英国に立ち寄った小松宮彰仁親王夫妻に随行してフランス、ドイツ、ロシアなど欧州各国を歴訪した。帰国後の八八年、宮内省御用掛を拝命、皇后の通訳(英語)と服飾(洋装)を担当し、敬三とともに皇后に長く仕えた。
 石井さんによると、二年間の留学中に敬三と志保子が交わした書簡は、計百七十通以上に及ぶ。敬三は皇后をはじめ宮中の洋装化などの様子を、志保子は諸外国の儀式の模様や各国王室の動静などを伝えた。
 八六年五月二十日付の敬三宛ての書簡では、志保子は「(洋学・洋服を勧める伊藤博文宮内大臣に)国の為ならば、何にても致すという皇后の言葉はありがたい」と返事。同時に、敬三が皇后に勧めた外国語の勉強に天皇が反対していることについて「『通弁(通訳)にて充分』との(天皇の)御言葉への父の嘆息はごもっともだ。欧州の皇族は二、三カ国語に通じて交際する」と父の意見に賛同する考えも寄せている。

美子皇后が洋服着用の建言を受け入れる際に発した言葉、「国の為ならば」の記載(6行目)がある志保子の書簡(学習院大学蔵)

 皇后が華族女学校の卒業式への出席で初めて洋装した翌日(同年七月三十一日付)の志保子宛て書簡では、敬三は「かなり御似合遊ばされ候」と誇らしげに報告しながらも「もっとも仕立等が本邦人なので十分とは申しがたい。(略)飾物にも乏しく(横浜にもなく)これには頗(すこぶ)る困った」などと言及。洋服が日本製なので不十分の上、宝飾品も入手困難と愚痴をこぼしている。志保子は同年十二月二十八日付書簡で「皇后御服(最初の大礼服)をドイツに発注したことは、当地日本人でよく言うものはない」と欧州での評判も伝えている。

美子皇后から下賜されたと伝わる香川志保子の通常礼服(杉野学園衣裳博物館蔵)

 石井さんは「皇后の信頼厚い敬三と欧州で見聞を深めた志保子が、西洋化に揺れる明治皇室を支えた功績は大きい。皇后の洋装化に関しても、実地の見聞をふまえた助言を敬三に行っており、宮中に洋服が導入されてくる初期の動きを知る上で大変貴重な資料だ」と指摘している。
 文・吉原康和
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