<首都残景>(28)大円寺の五百羅漢像 大火の犠牲者 弔い続けて

2021年9月19日 07時05分

境内の崖にぎっしりと並ぶ五百羅漢像。江戸大火の犠牲者を悼む小さな石仏は50年をかけて一体ずつ異なる個性的な表情で彫られた=いずれも目黒区で

 JR目黒駅西口から目黒川に向かって下りる急峻(きゅうしゅん)な坂が行人(ぎょうにん)坂。その途中に江戸時代初期の元和年間(一六一五〜二四年)から続く大円寺がある。
 山門をくぐると左手の斜面に並んだ五百羅漢の石仏群が目に飛び込んでくる。約五百二十体、同じ顔や表情は一つもない。笑っていたり、怒っていたり、泣いていたり。福田明衍(みょうえん)住職(51)によると、羅漢とは悟りを開いて如来になる前の修行者の姿。それだけに人間臭さを色濃く残しているのだそうだ。中には赤ん坊を抱いた母のような像もあり、隠れキリシタンとの関連を指摘する説もある。
 謎を含みつつも五百羅漢の石仏群が、一七七二(明和九)年の「目黒行人坂の大火」(明和の大火)に由来しているのは確かなところだ。明暦の大火(一六五七年)、文化の大火(一八〇六年)と並び江戸の三大大火の一つとされるこの火事は、大円寺を火元として日比谷、日本橋、千住あたりまで燃え広がり、焼死者は一万五千人に及んだ。

高層ビルを見上げる境内。奥の緑豊かな木立の下に五百羅漢像がたたずむ

 江戸中期の旗本、根岸鎮衛(やすもり)が書いた珍談、奇談満載の随筆集「耳嚢(みみぶくろ)」には、行人坂の大火を巡る奇談が紹介されている。
 当時、日光東照宮の神橋の架け替えがあり、幕府の御作事(ごさくじ)奉行、御目付(おめつけ)の役人らが神事に立ち会っていた。そのときカラスが落ちてきて死んだ。気味が悪いと話していると翌日、江戸から大火を知らせる飛脚が来た。役人らの屋敷も焼けたという。
 出火原因は放火だったが、大円寺も責めを負い、火事から七十六年間にわたって焼失した堂の再建は許されなかった。
 お堂の代わりに犠牲者の供養のために彫られた作者不明の石仏が増えていった。幕末に寺の再建が許され、石仏は現在の場所に整理されたが、それまで境内を覆い尽くしていたそうだ。

「甲子(きのえね)祭」の護摩焚(だ)きが行われ、本堂で祈りを込めた炎が高く立ち上った

 「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」といわれたように、かつて東京は無類の災害都市だった。江戸に幕府があった二百七十年ほどの間に四十九回の大火があり、町を根こそぎ焼き尽くした。
 福田住職は「大火の度に江戸の人々は犠牲者を長い時間をかけて弔ってきた。五百羅漢は災害を忘れないためのアイテムでした」と話す。同寺には八百屋お七の恋人吉三で、後に名を改めた西運上人の像もある。コロナ禍の最近、黙って手を合わせていく人が増えたそうだ。
文・坂本充孝/写真・戸上航一
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