<東京大空襲 体験者の証言>焼夷弾さく裂 鉄の扉1枚 生死を分けた…

2021年9月21日 06時00分
<連載>封印されたビデオ①越部恵美子さん(82) 
 一夜にして10万人が亡くなった1945年3月10日の東京大空襲など戦争の記憶を継承しようと、東京都が約300人の体験者の証言を収録したビデオテープが4半世紀公開されず、倉庫で眠っている。貴重な体験を後世に伝えるため、本紙は、ビデオの収録に応じた証言者をできる限り探し出して話を聞いた。6回にわたって紹介する。

◆遺体を焼く光景、頭から離れず

越部さんの空襲体験を収録した東京都の証言ビデオ画面


 「たくさんの遺体を車に積んできて、深川えんま堂で組み上げて焼いていた光景が頭から離れない」
 東京都北区の越部こしべ恵美子さん(82)は1997年、ビデオカメラの前で、神妙な面持ちで語った。
 都は外郭団体「東京都映画協会」に委託し、証言ビデオの収録を進めていた。当時、越部さんが都から受け取り、保管していたビデオを今年夏に見せてもらった。
 越部さんが戦時中に暮らしていたのは隅田川近く、現在の江東区福住地区。ビデオで「提灯ちょうちん店、材木店、釣り船店などが並ぶ下町情緒のある街だった」と回想している。
 空襲の瞬間を語る口調は生々しい。「真夜中なのに昼間のように明るくなった。家の前に逃げ惑う人があふれた。燃えた木材が倒れかかり、頭上から火の粉が降り注いだ」
 父は軍隊に召集され、いなかった。母と祖父母、2人の弟と1キロ北西の隅田川に架かる清洲橋を目指した。はぐれないように、胴体にくくりつけたひもを母の腕にしっかり結んで歩いた。
 清洲橋は焼夷しょうい弾が炸裂さくれつしていた。「リュックを背負ったお年寄りの背中に焼夷弾が直撃し、よろけながら隅田川に落ちた。まさに生き地獄だった」。必死で逃げ惑ううちに明治国民学校(現明治小学校)にたどり着き、鉄筋コンクリートの講堂に逃げ込んだ。
 「何とか隙間に入れてもらった数分後に、鉄の扉が閉められた」。外は火の勢いが増していた。

講堂に逃げ込んだ東京大空襲の体験を語る越部恵美子さん=東京都北区で(井上靖史撮影)

◆間一髪で講堂内へ「入れてくれ!」たたく音

 「入れてくれ!」。ドアをたたく音が響いた。無情にも鉄の扉は閉ざされたままだった。朝になると、扉の外側では折り重なるように遺体が積み上がっていた。「講堂の前のプールは芋を洗うかのように遺体が浮いていた」。扉1枚が生死を分けた。
 証言ビデオの収録から24年が過ぎた戦後76年の夏、越部さんは記者に訴えた。
 「私は6歳で1度死んだようなもの。運がよかっただけ。それから私は何年、生きてこられたと数えながら、命の大切さをかみしめてきた」(井上靖史)

【解説】貴重な資料 公開を

 10万人が犠牲になった東京大空襲をはじめ、都民330人の戦争体験を収録した証言ビデオは、1990年代に計画された「東京都平和祈念館(仮称)」で公開される予定だった。だが展示内容を巡り都議会が紛糾。石原慎太郎知事時代の99年、財政難なども理由に建設は凍結された。
 証言ビデオや防空ずきんなどの資料はお蔵入りとなり、「東京都庭園美術館」(港区)の倉庫に保管されたままとなっている。都は毎年3月に開く空襲資料展で、9人のビデオ証言の一部を公開しているだけだ。
 本紙は非公開の証言者を探し出して取材を進めた。証言者には当時、収録テープが渡されていた。証言は詳細かつ具体的で、戦争被害を伝える貴重な資料だ。
 原爆投下や沖縄の地上戦などの被害者の証言が後世に伝えられているのとは対照的に、20年を過ぎても倉庫に眠ったままというのは重大な不作為と言える。
 戦後76年がたち、体験者がいっそう高齢化する中、公開を望む証言者や家族は多い。ビデオ収録には1億円の公金も投入されている。都や都議会は公開に向けた対策を一刻も早く講じるべきだ。(井上靖史)

東京都が1996~99年度に行った空襲体験のビデオ収録事業で証言した人や関係者を探しています。ファクス=03(3595)6917=か、Eメール= shakai@tokyo-np.co.jp =へ情報をお寄せください。

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