さらば熱狂の客席 歴史の「証人」多摩川スピードウェイ 堤防工事のため撤去「自動車産業 発展の地」

2021年9月21日 07時06分

河川敷に残る日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」の観客席=いずれも川崎市中原区で

 川崎市中原区の多摩川土手に一見、コンクリート製の階段に見える遺構がある。85年前に開場した日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」の観客席だ。故本田宗一郎さんらが夢を追い、戦後の自動車産業を支えた「原点」ともいえる場所だが、国の築堤工事の一環で取り壊される見込み。サーキットの歴史を振り返る。
 東急東横線新丸子駅から徒歩十分。東急の鉄橋の川上寄りの土手に、長さ三百五十メートル、高さ五メートルの階段があった。市民グループ「多摩川スピードウェイの会」の副会長、小林大樹さん(53)は「かつてここに三万人が集まり、モーターレースを楽しんだ。当時の姿を残す観客席は世界的にも珍しい」と強調する。

観客席跡で保存を訴える小林大樹副会長

 会によると、多摩川スピードウェイは一九三六年に開場。一周一・二キロの楕円(だえん)形コースと、この観客席が設置された。同年六月に同所で初めて自動車レース「全日本自動車競走大会」が開かれ、本田さんも参戦。当時の新聞記事には、約三万人の観衆が集まり「スピード・スポーツにおける完全な成功を記録した」と書かれていた。
 だが翌年に日中戦争が勃発。戦局ムードが漂いだし、三八年までに少なくとも六回の大会を開き幕を閉じた。戦後は進駐軍のモーターサイクルクラブの協力でバイクのレースも開かれたが、五〇年代に自動車教習所などに改修され、姿を消した。今は野球場になっている。

1937年に開かれたレースのスタートシーン。観客席に大勢の人が見える=多摩川スピードウェイの会提供

 スピードウェイで実際にレースが行われた期間は非常に短いが、その熱意は日本の自動車産業の発展に火を付ける。ドライバーとして出場した本田さんは、戦後、現在のホンダを設立。世界最高峰のF1に参戦し、鈴鹿サーキット(三重県)の誕生にも尽力した。
 日産社員として大会を見守った片山豊さんは渡米し米現地法人社長に。日本を代表するスポーツ車「フェアレディZ」の市場投入に携わり、米国では「Zカーの父」と呼ばれた。

この地を走った旧車が展示された80周年記念式典=同会提供

 小林さんは「この場所がなければ日本の自動車産業の発展はなかった。先人の貢献を後世に語り継ぐ必要がある」と訴える。二〇一四年、歴史的意義を発信しようと、大会関係者の子孫らで「多摩川スピードウェイの会」を立ち上げ、現地に記念プレートを設けた。川崎市の「新多摩川プラン」(一六年)にも歴史的資源として「跡地の保存」が盛り込まれている。

観客席跡に設置されている記念プレート

 だが、国土交通省京浜河川事務所によると、観客席の堤防部分は、現行の河川管理施設等構造令の基準より高さ約〇・五メートル、天端幅約二・五メートル不足し、堤防のかさ上げと拡幅工事が必要としている。十月中旬にも工事準備のため立ち入れなくなる。太田敏之副所長は「会から要望を受け、残せるかどうかを含め対応を検討している」と話す。
 仮に堤防を強化した後、観客席の遺構を元の場所に戻すと、今後の管理はスピードウェイの会の自己負担になるという。
 十三日午後、無職の男性(79)が観客席に座り、河川敷を眺めていた。十二年間、毎日通っているという。「ここから見える景色が好きでね。観客席がなくなると聞いて、今のうちに焼き付けておこうと思います」。モータースポーツを愛する人だけではなく、この場所は地元住民がほっとひと息つける場所になっていたようだ。
 文・山下葉月 写真・嶋邦夫
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