<東京大空襲 体験者の証言>疎開先でも空襲 終戦翌日、学徒の遺体捜し「もっと早く終わっていれば…」

2021年9月24日 06時00分
<連載>封印されたビデオ④三好重遠さん(89)
 「中学生のとき、学徒動員され工場で働いた。一歩間違えれば死んでいた。収録に応じたのは、平和がいかに大切かを感じてくれればという思いからだった」

空襲で亡くなった動員学徒の写真を収めた文集を手にしながら体験を振り返る三好さん=東京都世田谷区で

 東京都世田谷区の三好重遠しげとうさん(89)は、都の依頼で戦争体験をビデオに証言した理由を語る。テープは手元になく、四半世紀前の記憶をたどってもらった。
 「渋谷区松濤で母、姉、弟と暮らしていました」。1945年3月10日の東京大空襲の後、インドネシアのスマトラへ軍属として赴いていた父親のつてをたどり、山口県に疎開した。「13歳でした」
 現地の旧制柳井中学に入ってまもなく、光市の海軍工しょう(兵器工場)に学徒動員された。「毎日、毎日、工員が隠れる防空ごうを掘らされた。機械なんてないから手でスコップを持って」
 8月14日の昼休み。空襲警報が鳴った。窓から逃げ、教えられたとおりに「耳をふさぎ、口を半開きにして目を押さえて伏せながら前進した」。何とか30メートルほど離れた場所にあった防空壕にたどり着いたが、爆撃は近くまで迫っていた。
 「ここも危険だ」。防空壕を飛び出し、海岸や裏山を駆け回った。空襲は一時間超にわたった。最盛期には3万人が働いていた巨大工場は「跡形もなくなった」。記録によると、空襲では約130人の学徒を含む約730人が死亡した。
 足を負傷した。翌15日は工場へ行くのを休んだ。玉音放送時の工場の様子はわからない。16日に工場へ行くと、亡くなった学徒の遺体を捜せと言われた。

東京都が証言の収録の際に渡した依頼文書の一部。三好さんが受け取った書面にも「後世に体験を継承していけるよう~」といった趣旨が書かれていた

 「でも終戦で気が抜けたようになってしまって真剣に捜せないんですよ。1日中、工場中を歩いたことは鮮明に覚えていますけれど。空襲は終戦の1日前。もっと早く戦争が終わっていれば。朝、元気に出て行った子が帰って来なかった親のことを考えるとたまらない気持ちになる」
 撮影の際、都から受け取った依頼文書には「貴重なお話を後世に残すために証言を集めたい」と書いてあった。そこで三好さんは「ビデオはてっきり公開されたと思っていた」と驚く。
 「何もわからない中学生が戦争に動員され、亡くなった方もいるということを知っておいてほしい」(井上靖史)

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