非常時の空気感を残す 『旅のない』 作家・上田岳弘(たかひろ)さん (42)

2021年10月10日 07時00分
 二〇一三年のデビュー以来、人類の発祥から終焉(しゅうえん)までを見渡すような、世界観の大きな小説を発表してきた。しかし九月に刊行された自身初の短編集では一転、コロナ禍の現在を生きる個人の生活に密着した。
 「強固な世界観を提示できる長編小説は、社会にとってワクチンのような効果があると思う。予防接種的に物語を取り入れておくことで、何かあった時、自分なりに考える材料になる。でも今の社会はまさに発熱中の状態。そんな時に求められるのは、ワクチンでなく、短編で症例報告を残すことだと考えた」
 その言葉通り、舞台となる二〇年の空気をすくい取った四編が並ぶ。緊急事態宣言で旅行が中止になり、都心のホテルで連休を過ごすカップル。開催されるはずだった東京五輪の期間中、小学生のおい二人を預かることになった夫婦。大人たちは動画配信サービスで暇をつぶし、子どもたちはアニメ「鬼滅の刃」に熱中する。日本中で見られたであろう光景が広がる。
 「ただ、読み返すと空気感が月単位で変わっているんです。今だってそう。一カ月前まで医療崩壊寸前と言われていたのが、新規感染者数が減ってくれば『大丈夫』となる。定点観測として、当時の空気を文章に残せたのは良かった」
 IT企業役員の肩書も持つ兼業作家だが、コロナ禍を機に「出社の頻度を減らして、執筆量を増やした」という。「短編を書いてみて思ったのは、逆に『跳べるな』ということ。長編だと、細密に書ける枠があるので、整理をつけ、出口をつくる必要がある。発想を遠くに飛ばすという意味で、短編ではいろいろ試せた」と手応えを語る。
 「今回は現場からのリポートにこだわった」という作家に、それでもマクロな話を聞いてみたかった。コロナ禍は人類にどんな変化をもたらしたのか。「必ずしもやる必要のないことを推進力にして、社会を無理やり走らせていたんだと強く感じた。毎朝九時に出社しなくても仕事は回るし、経済活動を止めても株価は上がる。多くの虚構性が暴かれた二年弱だった」。明晰(めいせき)な答えが返ってきた。
 「それを目の当たりにできたという意味では、コロナに翻弄(ほんろう)された期間も決して無駄ではない。この短編集が、読者にとってもどういう期間だったのかをいま一度振り返り、自分の中に染み込ませるきっかけになればうれしい」。講談社・一六五〇円。 (樋口薫)

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