山川静夫の歌舞伎思い出ばなし 山川静夫著

2021年10月17日 07時00分

◆芸を楽しみ共に生きた幸せ
[評]長谷部浩(演劇評論家)

 ひとつのことに打ち込む喜びを教えられた。
 著者の山川静夫は、紅白歌合戦の司会など、NHKを代表するアナウンサーとしてよく知られている。穏やかな語り口が甦(よみがえ)ってくるが、「幸せな気分」を、視聴者とともにする術(すべ)に支えられていた。
 米寿記念として刊行された本書は、歌舞伎座の三階席に通い詰め、寝食を削って、歌舞伎を見続けた学生時代の思い出から始まっている。三階から役者にタイミングよく声を掛ける「大向(おおむこ)うの会」に加わり、役者の声や台詞(せりふ)まわしをまねる声色(こわいろ)をよくした。特に十七代目中村勘三郎にすぐれて、本人に注目された。芝居の虫、勘三郎は、山川の声色を生かし、早替りの間を繋(つな)ごうとする。黒衣姿で二度舞台にあがって「勘三郎を演じた」のが、生涯の誉れとなった。
 今はもうない歌舞伎座のおでん食堂で、茶飯をおまけしてもらい空腹を満たしたこと。電車賃を節約するために、都電で四十分掛けて通ったこと。ものは豊かではなかったけれど、人々が熱意にあふれ、懸命に打ち込んでいた戦後の昭和が浮かび上がってくる。反面、あとがきにある「『芸』と『デジタル』は相性が悪いです」のひと言が突き刺さる。
 やがて、山川はNHKに入局し、六代目中村歌右衛門や十三代目片岡仁左衛門らの名優たちと、直接、会う立場になる。マスメディアに座を占めた人間の自慢話ではない。恵まれた偶然によって得た宝物を、心底、誇りに思って惜別を表している。その筆は、この十年のあいだにこの世を去った十八代目中村勘三郎、十代目坂東三津五郎にも及ぶ。存命なら六十代半ばで、歌舞伎の中心にいるべき人々を深く悼んでいる。 
 第三章の「名狂言の力」も読ませる。『勧進帳』や『仮名手本忠臣蔵』などの古典を、現在に生きる舞台として捉えている。懐かしい話に涙するのではない。山川にとって歌舞伎は、楽しみであり、喜びであり、友であった。読者も、その仲間になりましょうと誘ってくれた。
(岩波書店・1980円)
1933年生まれ。NHKアナウンサーを経てエッセイスト。『歌舞伎の愉しみ方』など。

◆もう1冊

岡本綺堂著『明治劇談 ランプの下にて』(岩波文庫)

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