<ブルボン小林 月刊マンガホニャララ>(30)見えない貧乏と今のセレブ像

2021年10月18日 07時21分
 六月の当欄で「底辺」を描く漫画を三つも紹介した。かつての漫画で描かれた貧乏は「状態」だが、今の漫画の人物がいう「底辺」は「認識」だ。貧乏は、それを「明るく笑い飛ば」したり「めげない強さ」を発揮したりできる。実際、そうする漫画主人公が多く、つまり貧乏は漫画を活気づける要素だった。
 「認識」だとそうはいかない。経済状況も含め、閉塞(へいそく)した状況や不公正な社会に対するどうしようもなさが、漫画内人物に満ちている。
 僕の家は貧乏だった。クラスでジャージの膝にツギを当てているのは僕だけだった。米は「徳用米」の上を買っていて、ササニシキが憧れだったが、それはそれとして、呑気(のんき)で楽しい日常だった。
 今、徳用米なんて売ってない。街をゆく誰も膝にツギなんて当ててない、皆がユニクロみたいな(激安なのに)こざっぱりした服を着て清潔そうで、「誰」が貧乏か可視化されなくなった。漫画やドラマの中でだけ「底辺」の自覚を持った若者たちが、ひたすら冷めた顔をみせている、そういう「今」だ。
 漫画は金持ちのことももちろん描いてきた。『ドラえもん』のスネ夫や『いなかっぺ大将』の西一(にしはじめ)のように、庶民に対する優越を誇示することで筋を盛り上げるライバルとして。あるいは『ゲームセンターあらし』の大文字さとるや『こち亀』の中川のように、金のかかる(漫画が盛り上がる)大仕掛けを提供してくれるパトロン役として(この特性は、漫画という「安直な」表現にはとても便利で、主人公の友人にはしばしば御曹司があてがわれるようになった)。それらはいわば「装置」としての金持ちだが、日本の経済が上向きになると『パタリロ!』や『おぼっちゃまくん』のような、金持ちが主人公という漫画がヒットした(他、どの主人公の家も平凡な中流家庭に「底上げ」された)。
 令和の金持ち漫画はどうか。児童向けの『おさわがセレブ♥さくらちゃん』を読むと昭和の『おぼっちゃまくん』の図式と実に似ていた。

和央(わお)明『おさわがセレブ♥さくらちゃん』 *『ちゃおデラックス』(小学館)で連載中。既刊2巻。

 庶民感覚を持つ語り部役に、金持ちを鼻にかけるライバル、そして、それらを圧倒するほどの金持ちで常識知らずの主人公と、今も昔も同じ。庶民と金持ちの二段構えだけではギャグの効きが弱いのだろう、庶民は唖然(あぜん)、小金持ちが悔しがるという「念押し」が必要なのだ。金持ちのふりで「実は貧乏」な見栄(みえ)っ張りのキャラクターが出てくるところまで『おぼっちゃまくん』の踏襲だ。
 でも、更新もある。ホテル王の娘、さくらは定番(?)の長いリムジンで校門前に登場。ダイヤのランドセルや、電話一つで校庭にプールを造るのはいかにも「ギャグ漫画の金持ち」だが、今の小学生の定番アイテムのレッスンバッグを「クラッチ持ち」し、スタバ風のコーヒーを片手に登校するなど、物品でなくディテールがセレブ。いわばインスタグラム的な切り取りの中に「今のセレブ像」があることが、可視化されない貧乏と対比的に戯画化された。
 「お金で幸せは買えない」という紋切り型を、作中の皆がわかっているようなのも今風。庶民側の僻(ひが)みも憧れもほどほどの描きようで、さくらだけでない、皆の間に友情が芽生えてきている。児童向け漫画と油断していたら先の巻で大感動をみせられそうな予感がある。(ぶるぼん・こばやし=コラムニスト)

関連キーワード


おすすめ情報

東京ブックカフェの新着

記事一覧