<よみがえる明治のドレス・12>夫とひらく宮中国際化 初代総理大臣・伊藤博文の妻、梅子
2021年10月19日 07時07分
明治天皇の后(きさき)、美子(はるこ)皇后が初めて洋服を着用した1886(明治19)年7月28日の翌日、初代総理大臣兼宮内大臣だった伊藤博文は、妻梅子宛ての手紙で安堵(あんど)の気持ちを伝えていた。欧化政策を進める博文の意を体して皇后とその周辺の洋装化を進めた梅子への心配りも感じさせる文面だ。初代総理夫妻が二人三脚で進めた宮中の国際化とはどのようなものだったのか。愛妻への手紙からその舞台裏の一端が垣間見えてきた。
「皇后宮のご洋服について詳しくお申し越していただきましたが、全て都合が良いとのことで、大いに安心しました」。こんな書き出しで始まる梅子宛ての手紙が、山口県光市の伊藤公資料館に所蔵されていた。
日付は、美子皇后が初めて洋服を着用した翌日で、洋服姿で初めて公的な場である華族女学校の卒業式に出席する前日だった。
手紙の意義について、同資料館を担当する光市教育委員会主査の河原剛さんは「皇后の洋装化を後押ししていた梅子に対し、皇后が初めて洋服を着用した時の安堵の気持ちを伝えたもので、博文が宮中の国際化を主導し、梅子もそれに協力していたことを示す貴重な資料」と強調する。
梅子は一八四八(嘉永元)年生まれで、六六年に長州藩の下級藩士だった博文と結婚。八六年当時、初代内閣総理大臣という最高位に昇進していた博文の欧化政策推進に協力。天皇が皇后の西洋化に難色を示しているとの意向が伝わると、自ら洋服を着て御所に参内するなど、宮中女子の洋装化の根回しに奔走した。
「皇后や女官たちの洋装化に向けて妻と二人三脚で行ってきた運動が、ついに実現したという博文の喜びがよく表れている」。日大准教授の刑部(おさかべ)芳則さん(日本近代史)はこう分析した上で「皇后の礼服を欧州に注文する前後の動きを実証できる好材料」と注目する。
手紙には、皇后の礼服を西洋に注文することに関して、杉孫七郎(皇太后宮大夫)と三宮義胤(よしたね)(宮内書記官)の二人と相談していることも記されていた。当時、博文は外務次官の青木周蔵の義兄にあたるドイツ人貴族を通じてベルリンの仕立屋から皇后の大礼服を購入する計画を進めていた。また、皇族の小松宮別当職も兼務する三宮の妻は英国人で、三宮夫妻は同年秋から欧州各国を歴訪する小松宮夫妻への随行が決まっていた。
小松宮夫妻の欧州視察には皇后側近トップの香川敬三の娘で英国に留学中の志保子も同行した。志保子が父に宛てた手紙には、三宮夫人らがパリで購入した皇后の洋服、宝飾類とその目録を日本に送ったことなどが記されており、博文の手紙にある皇后の礼服注文の方針は、ドイツだけでなく、欧州での複数の購入ルートの存在を示している。
茨城県立歴史館主任研究員の石井裕(ゆたか)さんは「日本の洋服仕立ての技術はまだ粗末な段階で、青木の妻(ドイツ人)と三宮の妻(英国人)などのあらゆるルートを使って、欧州製のドレスをそろえようとしたのではないか」と推察する。
こうした皇后の洋装化は、急速に進む宮中の国際化の象徴的な出来事の一つだった。大阪市立大都市文化研究センター研究員の柗居(まつい)宏枝さんは「梅子の精力的な活動によって、皇后をはじめ宮中の女性の洋装が実現したことは、伊藤の宮中改革の大きな支えとなった。日本最初のファーストレディーの活躍の成果といえる」と評価する。
文・吉原康和
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