学徒出陣78年 理不尽さ伝える

2021年10月21日 06時36分

◆1943年 10月21日 

明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で行われた壮行会

 第2次世界大戦で大学生らを兵士として動員した「学徒出陣」で、国主催の壮行会が明治神宮外苑競技場(現・国立競技場、東京都新宿区)で開かれた1943年10月21日から78年を迎えた。当時の学徒兵は「戦争に突き進む動きを見逃さないでほしい」と言葉に力を込める。そして都内の施設には経験者の貴重な証言ビデオがあり、学業を中断して戦地へ向かい、青春を奪われた理不尽さを後世に伝える。

◆岩井忠正さん 戦争へと突き進むな

2019年11月に市民団体が開いた都内での講演会で自らの体験を語る岩井忠正さん

 慶応大の学生だった岩井忠正さん(百一歳)=武蔵野市=は海軍将校となり、魚雷を改造した特攻兵器「回天」と、潜水服を着用して海底から棒状機雷で敵の上陸用舟艇を攻撃する「伏龍」という二つの特攻部隊を体験した、特攻からの生還者の中でも稀有(けう)な存在だ。戦後は商社勤務を経て翻訳業を営んだ。
 岩井さんは現在、高齢者施設で暮らしており、新型コロナウイルス感染防止のため、外部の人との面会が厳しく制限されている。本紙は長女の直子さん(62)に書面で質問を託し、回答を聞き取ってもらった。

出征後、戦地へ向かう前に遺影として自分の姿を撮影した岩井さん(右)。(左)は弟でやはり学徒出陣した忠熊さん=いずれも岩井直子さん提供

 岩井さんは、壮行会に参加した時の心境を「来るべき時がとうとう来てしまったのだという思い」と語った。特攻作戦に対しても「生きているうちに終戦を迎えるとは思わなかった。自分は死ぬと思っていたので、どのように死ぬかに大きな違いはなかった」と、死を受け入れていたという。
 過去の戦争を美化したり、加害の歴史を忘れたりする動きに強い懸念を示す。若い世代の人びとに「今がどんな時代かしっかり認識してほしい。知らないでいるうちにひたひたと戦争に突き進んでいることを見逃すようなことがないように、しっかりと見極めてほしい」と求めた。
 直子さんは「父が戦争のことを語り出したのは還暦を過ぎてから。特攻とはいかに残酷かを思い知った」と語る。

◆上良市雄さん 戦傷抱え新聞記者に

生前、しょうけい館の証言ビデオで受傷時を振り返る上良市雄さん

 太平洋戦争などで負傷した傷痍(しょうい)軍人(戦傷病者)とその家族の労苦を伝えるしょうけい館(千代田区)に、太平洋戦争で負傷した学徒士官の証言ビデオが残る。戦傷でハンディを背負ったものの、戦後は新聞記者として活動した。
 大阪府出身の上良市雄(うえよしいちお)さん。関西の大学に在籍していたが、四三年十二月一日、二十一歳で海軍に入隊。四四年十二月、米軍の硫黄島上陸(四五年二月)の直前、小笠原諸島・父島に少尉で赴任した。
 父島にも米軍の空襲が始まり、同年二月二十三日、艦載機の機銃掃射で右手右足に盲管銃創を負った。証言ビデオの映像で上良さんは気負うことなく、当時を淡々と振り返る。

父島で負傷後、内地に戻り、療養中の上良さん=1945年(いずれも同館提供)

 「双眼鏡で(艦載機を)見たとたん、銃撃を受け『熱いな』と思ったら、負傷していた」。島内の野戦病院に運ばれ応急手当て。「出血多量なので血管を神経と一緒に縛られた。気絶しそうになり」、麻酔なしで手術を受けたという。内地に送還され、横須賀、舞鶴の海軍病院に入院。しかし右手はまひし、「鉛筆が握れない」。城崎の分院で一日三回温泉に入りリハビリに努め、快方に向かった。
 戦後は毎日新聞社に入社。まだ電話が少ない時代。「取材先で会社に原稿を送るため各社と取り合いになるので走っていくが、途中で足がつり、他社に取られた時がある」と戦争で受けた傷が尾を引いたことを打ち明けている。
 二〇〇四年、八十一歳で亡くなった。
 文・小松田健一、加藤行平
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