他者と呼吸合わせ 『一人飲みで生きていく』 フリーランサー、元新聞記者・稲垣えみ子さん(56)

2021年10月31日 07時00分
 「わたし、寅(とら)さんになりたかったんですよ〜」。開口一番、稲垣さんはニコニコとこう言った。言わずと知れた「男はつらいよ」の車寅次郎のこと。トランク一つで各地を放浪し、誰とでも仲良くなり、気付けばちゃっかり居候を決め込んでいる。「居場所づくりの名人」だからだという。
 夫ナシ、子ナシ、家電ナシ。新聞社を五十歳で退職し、「無い」生活を極めるエッセーで人気の著者が、「一人飲み」の本を出した。といっても、居酒屋ガイドの類いではない。一人飲みに挑戦して学んだ、いわば人生哲学の書である。
 「大げさではなく、人生が変わった。退社の決意ができたのもそのおかげ」と断言する。きっかけは四十代半ば、地酒の飲み歩き企画の記事を担当したこと。意を決して居酒屋ののれんをくぐるも、いたたまれなさに撃沈状態に。それは「誰も自分を知らない場所で、身一つで世界と対峙(たいじ)する体験」だった。会社の肩書に頼りたくなるのも、虚勢をはるのも、他者におびえているからなんだ。ちっぽけな己に気付かされた。
 酒の知識を披露して店の人に引かれ、他の客に盛んに話し掛けて困惑され…。本書では失敗から学んだ教訓がつづられる。周囲を観察し、溶け込もうと努力した。店の人や客と呼吸を合わせ、笑顔を交わし、相づちを打つ。「すると世界が変わった。今や、話し掛けられる側になりました」
 本書は東京新聞・中日新聞の連載が元になっているが、開始直後にコロナ禍が到来。稲垣さんは感染防止に励むうち、自分を棚に上げて、居酒屋で飲む客を「意識低いな…」と思う自分にハタと気付いたそうだ。人を受け入れ、自分も受け入れてもらう。そんな「寅さんの境地」を投げ捨てかけていた。「一人飲みの極意は、見知らぬ他人に信頼や尊敬の気持ちを持つこと。疑心暗鬼の牢獄(ろうごく)に入っちゃダメだと、正気に返った」。しかも周囲の人々を気遣うのが一人飲みの精神。これぞ「感染防止と経済の両立」ではないか。
 住まいは都内の集合住宅。銭湯に通い、個人商店で買い物し、一杯飲んで…と暮らすうちに、ご近所さんの知り合いは百人を超えた。「自立した生き方とは孤立することではなく、居場所をつくること。自分は一人だけど一人じゃないと感じられたら、人生の不安は減ります」 朝日出版社・一六九四円。(出田阿生)

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