瀬戸内寂聴さん、焼け跡残る東京で「自分がばかだった」…ロングインタビュー「青春は恋と革命よ」

2021年11月11日 14時59分
 作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが11月9日、99歳で亡くなりました。本紙は2015年、戦後70年に合わせた終戦記念日特集で、寂聴さんのインタビューを掲載しました。夫の赴任先の中国・北京で終戦の日を迎え、「絶対負けない」と教えられた軍国教育のむなしさを焼け跡残る東京でかみしめた寂聴さんは決意します。「これからは自分の手で触って、手のひらに感じたものだけ信じて生きよう」。寂聴さんのご冥福をお祈り申し上げます。 (2015年8月15日付東京新聞朝刊に掲載、年齢・肩書きは当時)
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インタビューに答える瀬戸内寂聴さん=2015年7月、京都市右京区で

 今も青春の炎を命に宿すような言葉が心に迫る。戦後70年の終戦記念日を機に、93歳の作家、瀬戸内寂聴さんにインタビューした。戦時中、神風を信じた優等生は中国・北京で敗戦を告げる「玉音放送」を聞き、帰国後、母と祖父が空襲で亡くなったことを知る。「手のひらで感じたものだけを信じる」ことから戦後を始め、非戦や被災地支援へと、活動の幅を広げた。若い世代から安全保障法制反対の波が広がる中、送るエール。「青春は恋と革命よ」 (社会部長・瀬口晴義)

 <6月18日夜、寂聴さんは安全保障関連法案への抗議が続く国会前にいた。背骨の圧迫骨折や胆のうがんで昨年春から約1年はほぼ寝たきりの状態で、この日も車いすでの登場だった。「どうせ死ぬならここに来て、『このままでは日本はだめだよ』と申し上げて死にたかった」「戦争に良い戦争は絶対ない」と声を振り絞った>

 -国会前での訴えは大きな反響を呼びました。東京新聞のホームページで2015年6月に1番読まれた記事でした。訴えのもととなった、ご自身の戦争体験を教えてください。
 敗戦の時には中国にいました。女子大を繰り上げ卒業になり、婚約者と結婚して北京に行ったとたん、物価が毎日上がる貧乏生活。母親がたくさん持たせてくれた着物を売ってなんとか暮らしていたの。1945年6月、師範大学や北京大学などで教えていた31歳の夫に召集があってね。生後1歳にならない赤ん坊を抱えて、まさかと思いました。働き口を探したけれど断られ続け、ようやく北京の城外にある運送屋で働くことが決まり、うれしくて大喜びで出て行ったのが8月15日だったの。
 お昼になったら大きなラジオの前に集められ、直立して聞きなさいと言われました。ガーガーという波の音の中に甲高い声が時々入るのね。それが天皇陛下の敗戦の詔勅でした。でも、まったく意味が分からない。店の主人は分かったらしく、「日本が負けた」と泣きだしたんですよ。
 それを聞いてあいさつもせずに飛び出しましたよ。夢中になって走って帰ろうとしたの。日本人はみな殺されると思ったから。預けていた子どもが心配で。北京では日本人は中国人に威張ってましたからね。食べるものも違っていて配給も日本人は白米、中国人はコーリャン(雑穀の一種)。そんな生活だったのです。金稼ぎに大陸に来たような人は特に威張っていてね。本当に好きなように中国の人をいじめていたのを見ていました。
 家に帰って、門の戸をしっかり閉めて、息を潜めていたの。翌日そっと戸をあけてのぞいて見ると、路地の向かいの壁に真っ赤な紙がいっぱい張ってあるんです。「あだに報いるに恩をもってす」。そう書いてありました。蔣介石の軍隊が張って回ったと思うのですが。ひどい目にあっても仕返しせず、優しくしなさいという意味です。われわれ中国人は戦争に勝ったが、日本人に報復してはいけないといさめる内容ですね。さすがに孔子様の国だなと思いましたね。こんな国と戦争して負けるのは当たり前と思いました。
 だけど、一般の市民は分からないでしょ。怖かった。赤ん坊を連れて日本に帰りたかった。

 <引き揚げ船を待つ天津の塘沽タンクー貨物場では日本人たちが一緒に暮らした。そこは、貧富の差も戦前の職業も関係ない、力が支配する世界だった>

 貧乏な人は、引き揚げ者が捨てていった山のような荷物から布団袋をひっぱり出してリュックサックなんか作る。シーツや下着も。たちまち飯ごうなんか磨いて、必要なものをそろえちゃった。金持ちはそれまで自分の力で生活なんかしてないから、何もできない。だんだんお金持ちじゃない人が威張りだした。モーパッサンの小説で「脂肪の塊」という傑作がある。戦争中で敵方が女を出せと言ってくる。1人の娼婦しょうふが行って朝帰ってくるというそれだけの短い小説。それと同じことが起こった。1番威張っていた男が女を出せと。
 集団の中に、きれいで派手な格好の女性がいた。そういう商売をしていた人だと奥さん連中は見くびってばかにしていた。いじめていた。その女性が(男性の相手を)やるよ、と立ち上がって。奥さん連中がびっくりして「お願いします」と。夜の12時ごろ帰ってきた。何も言わない。皆「ありがとうございます」と。何があったか怖くて聞けなかった。
 ある日、日本人の慰安婦が歩いてとぼとぼ来た。気がついたら部隊がみんないなくなってたと。ワンピースでパンツもはいていない。ならず者たちがシーツを洗って縫ったパンツをはけ、と。気のいい人で子ども好きで抱かせてくれとよく来ていた。日本人の慰安婦もたくさんいたんですよ。
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