瀬戸内寂聴さん、焼け跡残る東京で「自分がばかだった」…ロングインタビュー「青春は恋と革命よ」

2021年11月11日 14時59分

 <結局、帰国できたのは敗戦から約1年後の46年7月。お盆前に長崎県佐世保市に引き揚げ船が着いた>

 日本に戻ると、身体検査の上、白い粉をかけられました。驚いたのは汽車の窓ガラスが壊れてなくなっていたこと。そんな汽車は初めて見ました。真っ暗な中で女の人が炊き出しをしてくれた。(原爆が投下された)広島を列車で通過したときには真夜中で、何かが落ちたとは聞いていたが、遠い話に思えた。でも真っ暗でも何もないと分かりました。すごい怖かった。郷里の徳島駅に着いたら焼け野原です(注1)。徳島が空襲で焼けているなんて思ってもなかった。間にあった建物がみんな焼けちゃったから、眉山びざんが駅のすぐ近くに感じました。
 ぼんやりしていたら小学校の友達だったすみちゃんという女の子が話し掛けてきました。「あなたのお母さん防空ごうで焼け死んだのよ。かわいそうね」って。母の死を初めて知らされました。でも何を言っているのか分からなくて。

寂庵の庭に立つ瀬戸内寂聴さん=2011年4月、京都市右京区で

 姉が自転車で迎えに来てくれてその晩から私たち夫婦と娘と3人で実家に居候です。でも、空襲で亡くなった母と祖父のことは怖くて父に聞けなかった。死に目に会わないと生きているような気がするんです。母はこんな徳島の田舎町にもしも空襲があったら、日本が負けることだ、と日ごろから言っていたそうです。そういう人なのね。もう生きてもしょうがないと思っていたんじゃないかな。どんな死に方だったのか、いろいろ言われたけど、本当のことは分かりません。
 姉の夫は、満州に出征し、戦後シベリアに6年間、抑留されました。どんなにきつかったか、帰国後も具体的なことは何も言わなかったですよ。真っ昼間も戸を閉めて暗くしてうずくまって泣いているのね。シべリアで戦友が死んでいった。自分が生き残っていることが申し訳ないと言って泣くの。本当にかわいそうでしたよ。
 -焼け跡の廃虚の中から戦後日本は奇跡的な復興を遂げました。
 徳島で長く居候してたんですが、夫が東京で職を得て上京しました。女子大時代は、東京のいい時を見ているから、焼けてしまった街を見て怖かったですよ。ぞっとしました。徳島は小さい町だから帰国した時にはこぎれいに片付いていたけど、東京は手付かずの場所もあった。生き残った人から話を聞いて、初めて空襲の恐ろしさを知りました。その時感じたのは「自分がばかだった」ということ。教えられたことを真に受けてよくぞ今まで生きてきたなと。
 物心ついたころから「非常時」でしたからね。私にとっては「非常時」が普通だったのね。大正から昭和になる頃は世界中が不景気でした。
 戦前の小学生は日本は強くて戦争には絶対負けなくて、危なくなったら神風が吹くと教えられていたの。先生の言うことを丸のみして信じるような優等生でした。母はかまどの前に座って、私に教育勅語(注2)を覚えさせるんですよ。子どもは覚えるんですね。それで先生にほめられて。教育されることを全部信じていたんですよ。「良妻賢母」を育てることを目的とした県立の女学校でも優等生だったのね。
 授業を休んで戦地の兵隊さんに送るチョッキを作ったり、戦場をしのんで、おかずなしで梅干しも入れない弁当を食べたりする日もありました。だんだん戦争が日常になってくるんです。
 ニュースは大本営発表だけ。負けていても勝ったというでしょ。みんなこの戦争は良い戦争だ、天皇陛下のおんために命をささげる、東洋平和のための戦争だ、と大本営発表だけを聞かされていたから。負けてるのにちょうちん行列していた。そんなおばかちゃんでしたね、私も国民も。
 戦後、焼け跡の残る東京を見て、これからは自分の手で触って、手のひらに感じたものだけを信じて生きようと思いました。それが私の革命です。
 -戦争はもう嫌だという民衆の思いが、戦争放棄の9条を盛り込んだ憲法の支持にもつながったんじゃないでしょうか。寂聴さんは、新憲法をどのように受け止めたんですか。
 小説を書くまでは憲法のことはあまり考えたことはなかったんです。国で起きていることなど、耳に入らなかった。(夫と子どもを残して)家を飛び出して、父親に「鬼になったんだから、また帰ってきたり謝ったりしないでくれ」と怒られて。憲法を意識したのは田村俊子(注3)や岡本かの子(注4)など、大正時代、時代に抗して激しく生きた女性作家のことを書いていたときです。彼女たちがどういう時代を生きたのかを調べているうちに大逆事件にたどりついた。
 大逆罪で幸徳秋水(注5)らと一緒に処刑された管野須賀子(注6)のことを徹底的に調べるうちに、日本の政治とか裁判のいいかげんさがよく分かりました。憲法の大切さも学びました。新しい憲法は敗戦後、米国に押しつけられたと言うけれど、負けて勝ち取ったものですよ。すごい犠牲の上にできた憲法なんだから。もしも、日本が9条を守らないようなことがあれば、世界を欺き、うそをついたことになる。戦争しません、しませんって言ってきたのだから。みっともないことだと思う。
 政府の中には戦争体験者は1人もいませんね。やはり人間の想像力には限界があるから。病気してつらい目に遭わないと病人の苦しさは分からない。年をとってみないと年寄りの寂しさは分からない。それと同じことです。戦争が起こったら子どもや孫が兵隊になる。その恐ろしさを想像できない。分かっていない。

 <1991年の湾岸戦争直後、寂聴さんはイラクに薬品などを届けに行く。以降、2001年の米中枢同時テロや米国のイラク武力攻撃などには断食行や意見広告で反対の意思を明らかにし、阪神大震災や東日本大震災など災害が起きれば被災地に駆け付ける。寂聴さんの手のひらからの「革命」は広がっていく>

 阪神大震災の翌日には歩いて神戸まで行きました。そばにいた人が「空襲と同じ目にまた遭った」と独り言を言っていました。敗戦を北京で迎え、空襲直後を知らない私にとって、焦土を初めて目の当たりにした思いでした。

小学生に囲まれ、笑顔の瀬戸内さん=2011年6月、岩手県野田村で

 圧迫骨折で寝込んでいた時に3・11の東日本大震災があり、原発事故が起こりました。思わず跳び起きましたよ。6月にやっと自分で歩けるようになって東北に向かったんですよ。その時に見たのもどの街もどの街も全部流されていて空襲の後と同じようだった。これが戦争の後なんだなと思いました。人間は自然に勝てません。もっと本気になって災害の手当てを考えなきゃいけないと思いますよ。
 なぜ立ち上がるか。小説家というだけだったらできません。出家したでしょ。51歳でね。知らなかったけどお坊さんには義務がいっぱいあるんです。「亡己利他」といって人のために何かをしなきゃいけないんですよ。もともとが素直だからお坊さんになった以上、やらなければいけないと思っている。
 災害が起きたら有り金持って現地に飛んでいくんですよ。何もできなくても僧衣の私が行ったらみんな喜びます。何もできないので、みんな疲れているでしょうから肩をもんであげると言うの。本当にうまいのよ。女学校では卒業の時に本職を呼び肩をもむ実習があったの。1番うまいと言われた人が校長先生の肩をもむんですよ。校長先生の頭をたたいて卒業したのが私。本職が感心したくらいうまいのよ。
 避難所にいる人の体はかちかちに凝っているの。最初は恥ずかしそうにしているけど、うれしそうな顔をするの。ふと気付いたらずらーと並んでいて。全部もんであげて。それしかできないの。「政府が何もしてくれない」とか話を聞いてあげると、心が休まるんじゃないですか。
 寂聴というより、尼さんがきてくれたと喜んでくれる。お友達になった被災者が毛糸で帽子と肩かけを編んで送ってくれる。今も付き合っています。人間の本質は、どういう立場にあっても性善説だと私は思うの。
▶次ページ「未来は若い人のもの。自分の革命をしていけばいい」

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