のぼりくだりの街(7)四の坂(新宿区) 上品な風情 愛されて

2021年11月13日 06時30分

階段がある四の坂、階段の始まるあたりの右側に林芙美子記念館がたたずむ=新宿区で

 さわやかな秋晴れに誘われて新宿区の四の坂を訪れた。周辺には並行するように一の坂から八の坂が並び、大正から昭和にかけて、小説家や画家ら「文化人」と呼ばれる人たちが多く住んだ。静かで品のある坂を歩いていると、ひょっこりと文化人とすれ違うような錯覚にとらわれた。
 四の坂のある中井地区は下落合から分かれた地域。都営大江戸線・西武新宿線中井駅付近から北側に広がる一帯には、東から順に一の坂、二の坂、三の坂…と約百メートルおきに坂が並び、八の坂まで続く。
 大正期には中落合地区が開発され、高級分譲住宅地「目白文化村」が売り出された。落合地区(目白文化村、西落合、中落合、中井、上落合、下落合)に住んだ文化人は七十人を超える。中井地区を例に挙げると、洋画家の刑部人(おさかべじん)、作家の船山馨(かおる)、吉屋信子、そして林芙美子らが居を構えた。日当たりのいい南斜面。適度に郊外で、目白や新宿の街にも近いことも、好んで住んだ理由という。
 四の坂は両サイドを石垣にはさまれ、階段になった坂が上まで続いている。坂を愛し、国内の坂を研究する「坂学会」の磯谷真理子副理事長が「四の坂上から見た階段坂はとても品があります」と話すように、八つの坂の中でも落ち着いた雰囲気を醸し出す。
 四の坂の入り口に新宿区立林芙美子記念館がある。芙美子が実際に住んだ家と土地を区が買い取り、遺族から遺品の提供を受け、一九九二年に開館した。都選定歴史的建造物でもある趣ある同館で、芙美子の生前の姿をしのぶことができる。

記念館の庭

 芙美子が居を構えたのは四一(昭和十六)年八月。近くの洋館から転居を迫られた芙美子はこの地を去りがたく、土地を購入し家を建てた。「東西南北風が吹き抜ける家というのが私の家に対する最も重要な信念」(芙美子)。設計者や大工を連れて京都の民家を見学したり、材木を見に行くなど、家造りに相当のこだわりがあったようだ。
 芙美子が住んだのは約十年間。広い庭に面して書斎や居間が並ぶ。その庭からは「春にはウグイスの鳴き声、夏はせみ時雨、秋になると虫の声が聞こえてきます」と受付の女性は目を細めた。
 夫で画家の緑敏(りょくびん)のアトリエは展示室として使われ、来月十四日まで「林芙美子没後七十年記念展 林芙美子と作家たちの交流」が開かれている。
 四の坂を上がりきると、文化人が住んでいた西落合や目白文化村に続く。一の坂に隣接した山手通りを越えると、また別の坂が連なる。
 磯谷副理事長は「林芙美子記念館見学と併せて、落ち着いた雰囲気の落合の坂巡りは大人の散歩にお薦めです」と呼びかける。

◆「林芙美子」がお出迎え

林芙美子記念館を訪れると、芙美子の絵が迎えてくれる

 林芙美子は1903(明治36)年、福岡県門司市(現在の北九州市)の貧しい行商の家に生まれた(山口県下関市生まれの説も)。広島県尾道市の高等女学校卒業後、恋人を頼って上京。関東大震災で被災し、一時尾道に戻るが、再び上京。女給や事務員など職を転々とし、30年に発表した自伝的小説「放浪記」で流行作家の仲間入りを果たした。
 日中戦争には内閣情報部のペン部隊の一員として中国・上海、漢口に赴き、太平洋戦争でも陸軍の報道班員としてシンガポールなどに滞在。「私は兵隊が好きだ」と語っている。
 戦後も「うず潮」「浮雲」など精力的に執筆を続けたが、51年6月、持病の心臓病で急死した。
 自宅で文机に向かい執筆していると、ペンの勢いで机が前へ前へと進んだという。色紙には「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と好んで書いた。

記念館の書斎。雪見障子と座卓がある

◆「坂の宝庫」巡ってみては?

 中井地区は「坂の宝庫」。坂学会の磯谷副理事長に坂巡りルートを教えてもらった。
 四の坂・林芙美子記念館<4>から中井通りを西へと歩き、五の坂<5>、六の坂<6>、七の坂<7>をながめ、八の坂<8>を上り中井御霊神社へ。続いて、ごりょう坂<9>、バッケ坂<10>から坂上通りを抜けて、五の坂<5>を下り、再び中井通りへ。三の坂<3>、二の坂<2>、一の坂<1>を過ぎれば山手通りを北へ進む。山手坂<11>、振り子坂<12>、六天坂<13>、見晴(みはらし)坂<14>を回り、中井駅に至る。記念館の見学含め約2時間。
 文・加藤行平/写真・市川和宏
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