<デスクの眼>強まるロシアの対日攻勢 心理戦に敗れた「安倍外交」 外報部・常盤伸

2021年11月17日 16時52分

2018年11月、シンガポールで会談する安倍首相(当時)(左)とロシアのプーチン大統領=共同

 2018年11月14日、安倍晋三首相(当時)とプーチン大統領がシンガポールで首脳会談を行い1956年の日ソ共同宣言を基礎に交渉を進めることで一致したいわゆる「シンガポール合意」から、まる3年が経過した。安倍氏は「平和条約交渉を仕上げていく決意であります」と強い決意を表明したが、その後も領土交渉は一切行われず、今では取り上げるメディアもない。
 日本政府はかたくなに認めないが、客観的に見れば、日本側から交渉の基礎を1993年の「東京宣言」から56年の「日ソ共同宣言」に事実上逆戻りさせる提案を行った事実は、否定的な意味で北方領土交渉の歴史上、深刻な意味をもつ。プーチン氏らは、約20年間かけて執拗に進めてきた東京宣言の死文化を目指す対日戦略がようやく実を結んだとして、自らの強硬路線の正しさに自信を深めたに違いない。
 安倍政権は、希望的観測に基づき、歯舞、色丹の2島返還を一気に実現しようと狙ったが、ロシア側に一蹴されただけだった。しかし、対ロ認識の甘さを考えれば、厳しい結果は容易に予想できた。2013年から7年8カ月に及んだ安倍政権の対ロ外交とはなんだったのか。北海道新聞の取材班が安倍プーチン外交の全貌を克明に描いた「消えた『四島返還』」(北海道新聞社)は、それを考える上で、必読書だ。膨大な取材メモにもとづき、交渉の内幕を見事に描き、関係者や専門家の間で話題となっている。
 なかでも2016年12月の首脳会談で、北方領土での共同経済活動を提案したのは、前年に行われた日ロ外相会談後の夕食会で、ラブロフ氏の「国際約束でやればいいじゃないか」という非公式の「極秘提案」が日本側を動かしたという独自情報は、特に興味深い。強硬発言をしつつ非公式の場などで、期待を抱かせるような思わせぶりな言葉を投げかけると、交渉を打開したい相手は敏感に反応する。ロシアがソ連時代から徹底的に磨きをかけてきた心理戦の手法だ。
 プーチン政権は、安倍氏退陣後も、領土交渉が行われなくても経済協力は推進するという「安倍路線」から逸脱しないように、ますます攻勢を強めている。

8月、北方領土・択捉島の紗那で建設が進む公立校の新校舎=共同

 プーチン氏は7月、安全保障会議の場で、北方領土の現状に「特別な注意」を払うようミシュスチン首相に求め、択捉島に派遣。ロシア政府は外国からの投資を誘致するための「自由関税ゾーン」の設置などを進める意向を表明。先月には2人の副首相を択捉島に派遣し、日本側をけん制している。
 プーチン氏が安全保障会議で北方領土をわざわざ取り上げ、内外にアピールするのは異例だ。極東開発に対する連邦予算支出が既に滞っており、クリール諸島発展計画への支出も困難になっている。あくまでロシアの主権下で日本や外国の資金を投入し、開発計画を進める方針は明らかだ。日本の望む「特別な法的制度」を断念させる狙いだろう。
 そもそも共同経済活動の推進に舵を切った日本側の思惑は、領土交渉が全く進展しないなかで、ロシアが支配を強化する北方四島に、ロシアの主権の及ばない領域を作ることにより、日本の存在感を高めながら、返還への足がかりにするという考えだった。だがそうした構想は、当初予想通り、絵に描いた餅に終わったというべきだ。
 北方領土周辺海域では、ロシア国境警備局による取り締まりが強化され、漁民は悲鳴を上げている。連邦保安局(FSB)は大規模な会議を開き、ソ連との戦争への日本の準備に関する歴史文書を機密解除し、あらためて北方領土を占領した対日参戦の正当性をアピールするプロパガンダ(政治宣伝)を強化している。
 プーチン氏らロシア政権が一体となって進める、このような偽情報(ディスインフォメーション)を織り交ぜた対日心理戦は巧妙そのものだ。北方領土問題を巡るロシアの狙いは、硬軟両様の圧力で、領土抜きの平和条約あるいは「善隣友好条約」を締結して、日本との領土問題を事実上、幕引きにすることだろう。
 日本では、欧米など先進民主主義諸国と異なり内外で攻撃的行動を続けるプーチン政権が、国際社会とロシア国内の双方にいかに深刻な問題を引き起こしているかという重要な問題について、危機意識があまり感じられない。中国への対抗でロシアとの戦略的関係を強化すべきとか、中ロ離間を図るために対ロ関係を重視せよなど、およそ根拠のない主張も一部で横行している。
 その意味では、岸田文雄首相のプーチン政権認識が、よりさめた見方である点は、交渉がこれ以上後退しないための重要な歯止めとなるだろう。
 「消えた『四島返還』」によれば、モスクワでの日ロ首脳会談を控えた2013年4月10日、岸田氏は「ラブロフは俺が何月何日にどういう発言をして、それが日ロ交渉にどういう影響を与えただとか、酔っ払いながらガンガン言ってきた。徹底的に調べられていた」と注目すべき事実を周囲に明かしていた。ロシアはソ連時代と同様、交渉相手の経歴、素行、交友関係、過去の発言などについて、徹底的にプロファイリングを行い、交渉を主導し、優位に運ぼうとする。「猜疑心を捨て信頼を醸成しよう」と公言する安倍氏とは異なり、岸田氏はむしろ健全な警戒心を抱いているようだ。首相就任後の発言では「これまでの諸合意を踏まえて平和条約交渉に取り組む」として、日ソ共同宣言には直接言及していないことも重要だ。

2015年9月21日 モスクワでの日露外相会談後の共同記者会見終了直後、ラブロフ外相を立たせたまま、立ち上がろうとしない岸田外相(当時)=常盤伸撮影

 思い出すのは2015年9月21日に、モスクワで行われた当時の岸田外相とラブロフ外相との日露外相会談後の共同記者会見終了直後の一幕だ。私は当時モスクワ特派員として現場で取材にあたっていたが、ラブロフ外相は「北方領土という話は対象になっていない」と述べ、岸田氏の発言を全否定して見せた。岸田氏は会見が終了し、握手しようと立ち上がったラブロフ外相をしばらく立たせたまま、なかなか立ち上がろうとしなかった。温厚な人柄で知られる岸田氏だが、外交的に非礼な発言をしたラブロフ外相に不快感を態度で示した。ラブロフ氏は内心かなり驚いたらしい。
 就任記者会見で、岸田氏が「中国やロシアとの関係では、主張すべきは主張し、毅然とした外交を進める」と明言したことは注目すべきだ。岸田氏はロシアによるウクライナ南部クリミア半島併合について、2015年には「ウクライナで起こっていることも力による現状変更だが、北方領土の問題も力による現状変更だ」と述べており、ロシア側は警戒している。
 20年近くかけて対日領土交渉の枠組みを転換させることに成功したと考えているロシア側は、次の目標実現のため、岸田政権以降をにらんで長丁場で臨むだろう。最悪の事態を防ぐためにも、いま最も必要なのは、対ロ交渉失敗の本質について、専門家による超党派での多面的な検証ではないだろうか。

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