<「過労死ゼロ」へ 遺族たちの闘い>(中)積み重ねた訴え 国や会社 徐々に変化

2021年11月18日 10時10分

世界に「karoshi」問題を広めるきっかけとなった平岡チエ子さん=大阪府藤井寺市の自宅で

 一九八八年四月、四十五歳だった平岡チエ子さん(79)=大阪府藤井寺市=は、新聞の小さな告知記事にくぎ付けになった。過労死シンポジウム。その二カ月前、働きづめだった夫の悟さん=当時(48)=を突然亡くした。「原因は仕事以外にない。初めて知る『過労死』という言葉が腹に落ちた」と振り返る。
 主催した大阪弁護士会はシンポから四日後、全国に先駆けて無料電話相談「過労死110番」を実施。午前十時の開始を待ってダイヤルを回し、訴えた。「夫が、働きすぎで亡くなりました」。過労死・過労自殺相談の第一号だった。
 悟さんは、大手ベアリングメーカーの工場で班長だった。バブル景気に沸く工場は二十四時間フル稼働で十二時間ごとの二交代制。自ら夜勤に入り、若い部下が嫌がる日曜も出勤した。
 「お願いだから休んで」と、子どもたちと頼んでも駄目だった。「休めへんねん」。電話で出勤を求められると、重い足取りで出ていった。自宅のトイレで倒れていたのは二月二十三日夜。急性心不全だった。亡くなるまでの五十一日間は休みなし。「泊まりがけの家族旅行は、二十年間で一度だけ」と振り返る。
 脳・心臓疾患の労災認定基準の目安として、厚生労働省がいわゆる「過労死ライン」を通達したのは二〇〇一年。残業が「発症前一カ月で百時間」か「発症前二〜六カ月の月平均で八十時間」を超えると、健康障害リスクが高まるとした。
 会社の協力が得られず、家族で記憶をたぐって計算したところ、亡くなるまでの一年で労働時間は約三千六百時間。月平均の残業は百十時間を超えた。過労死ラインが示される十三年前とはいえ、「異常な働き方だった」と語気を強める。
 電話相談の二カ月後、弁護士の力を借り、労働基準監督署に労災を申請。翌年五月、認定された。
 脳や心臓の病気を発症した際の労災認定基準ができたのは一九六一年。ただ、勤めている工場が火事になって不眠不休で消火活動をしたなど、発症前日か当日、異常なことが起きた場合に限られていた。八七年の改正で直近一週間の業務量を考慮されるようにはなったが、長期的な過重労働での認定は初めてだった。
 九四年には、勤務先を相手取った民事訴訟でも、賠償金と謝罪を勝ち取って和解。会社の労務管理の在り方が過労死の原因になりうることを、社会に知らしめるきっかけになった。訴訟の代理人を務めた岩城穣(ゆたか)弁護士(65)は「労災認定、民事訴訟での勝利は、ともに画期的だった」と言う。
 「過労死ゼロ」を目指す取り組みは、国、会社側の意識をどう変えていくかの戦いだ。この三十年余、チエ子さんら遺族は声を上げ、裁判で一つ一つ勝利してきた。その積み重ねの一つが、九月に運用が始まった脳・心臓疾患の新しい労災認定基準だ。残業時間以外の要因も重視し、より柔軟に判断するよう求めた。
 「karoshi」として、今では海外でも知られる過労死。支援を求め、署名活動をするチエ子さんを、米紙が一面で報道して世界に広がった。昨年度、過労死として労災認定されたのは六十七人、過労自殺は未遂も含め八十一人だ。
 「仕事に命を奪われることがあってはいけない」。若い姿のままの夫の写真を見つめながら、チエ子さんは繰り返した。

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