<東京裏返しガイド 吉見俊哉さんと歩く>(上)上野公園 徳川の盛衰
2021年11月27日 06時59分
東京の街を「裏返し」しながら歩いてみることを社会学者で東大大学院教授の吉見俊哉さんは提案する。歴史の地層をめくってみたり、片隅に追いやられている存在に光を当ててみたり。魅力を再発見し、未来の姿を考えることにもつながるという。一緒に歩いた。
初回は上野公園(台東区)。吉見さんと東京メトロ千代田線湯島駅の天神下交差点方面改札で待ち合わせ、不忍池の南側に出た。
「ここは太古の時代、上野台地と本郷台地に挟まれた入り江でした。縄文海進(約六千年前)で海が入ってきていた」。太古から現在まで、半日でぎゅっと濃縮した時間旅行ができるのが上野公園の魅力という。
吉見さんは、東京という都市の特徴は「三度占領されたこと」という。一度目は十六世紀末、徳川家康の江戸城入城、二度目は十九世紀の薩長政権の占領(明治維新)、三度目が一九四五年の敗戦に伴う米軍の占領と位置付ける。「三回の占領にもかかわらず、占領以前の風景がまだら模様に都市の中に残っている。地形の複雑さが、それを可能にしたのだと思います」
武蔵野台地の東側は、上野台地などが指のように張り出し、間を流れる川が、谷や坂など複雑な地形を刻む。その起伏の中に、過去の時代の痕跡も残ったというのが吉見さんの説だ。
不忍池を時計回りに進むと北側で上野動物園との境界線となる茶色いフェンスに突き当たる。現在、池の一部は動物園内にある。「江戸時代は池は周囲に茶屋が立ち、にぎわった。フェンスで分断され、かつての栄華が見えてこない」と吉見さんは残念がる。
熱弁を聞いているうち、フェンスの南と北に分かれて群生するハスが歴史に分断された悲劇の一族のように見えてきた。いや、戦時中は水田になったりと苦難もあったようだし、今の方が幸せかもしれないけど…。「裏返し」を意識すると、当たり前だった風景に心が揺らぎ始める。
池の東側から上野台地を登り、摺鉢山古墳(約千五百年前)を経て一挙に江戸時代にワープ。上野は、徳川幕府の安泰を願う寛永寺の建物が広大な敷地に並び、上野東照宮が金色に輝く「聖なる場所」だった。
一六五一年、三代将軍家光が建てたとされる上野東照宮には動物や植物の彫刻が色鮮やかにほどこされている。「金も銀も採れた成長期のきらびやかな世界。徳川のご威光を江戸町民に見せつけるパワーがあった。動物園だけに来ている人はこの世界を知らない」。ここにも動物はたくさんいるのに…。
寛永寺清水観音堂から徒歩一分弱で徳川パワーの終わりを象徴する場所にたどり着く。彰義隊の墓だ。一八六八年、寛永寺に立てこもり新政府軍に敗れた。現在の大噴水の場所にあった根本(こんぽん)中堂など寺の多くの建物が焼かれた。寺の黒門は上野を離れ、弾痕生々しい姿のまま円通寺(荒川区)に保存されている。
明治以降、上野では西洋の文明や技術を紹介する博覧会が開催された。「徳川の記憶を上野から消していったんです。博物館や美術館、動物園も近代的文明を見せつけるための装置」。不忍池では博覧会で競馬や飛行機などが披露された。
帝国図書館だった国際子ども図書館の前を通り、現在の寛永寺根本中堂を訪ね、時間旅行を終えた。
歴史の地層を「裏返し」することの意味をあらためて吉見さんに聞いた。「歴史はらせん状に循環しているので、経験した時代の層に未来のヒントは隠されています。掘り起こすことで、未来の多様なあり方に気付くことができます」
根本中堂で出迎えてくれた寛永寺の石川亮岳執事の話を思い返した。一八七九年に現在の場所に再建された中堂には川越喜多院本地堂と上野東照宮薬師堂の建材が使われているという。江戸時代の中堂より小さいが、循環型社会を目指す今の時代には最先端の「お手本」かもしれない。
(全三回。十二月四日は「石神井川と飛鳥山」です)
<よしみ・しゅんや> 1957年東京生まれ。東京大学大学院情報学環教授。著書に「東京裏返し 社会学的街歩きガイド」(集英社)「五輪と戦後」(河出書房新社)「東京復興ならず」(中央公論新社)など。
文・早川由紀美/写真・坂本亜由理
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