万葉と沙羅 中江有里著 

2021年11月28日 07時00分

◆本と言葉でつながる2人
[評]若松英輔(批評家・随筆家)

 本は、物語や哲学の器であるだけでなく、人生の地図のようなものなのかもしれない。ある本と出会うことによって、人は自分が今、生涯という旅においてどのよう位置にいるのかを知らされることがある。
 主人公の万葉と沙羅は、学年が一つ違う幼馴染(なじみ)の若い男女だ。物語は、二人が高校生から大学生になっていく時間のなかで流れて行く。
 二人は恋人ではないのだが、ある意味では恋人よりも近いともいえる。沙羅は「『好き』だってもっと細かい言葉があればいいのに」と漏らす。二人に恋心がないのではない。ただ、恋よりも互いのかけがえのない人生の「時」を愛(いつく)しみたいと感じている。自分の気持ちを通すよりも、あわいにある見えない大切な何かを守ろうとしている。
 沙羅は読書が好きというよりも、言葉を魂の糧、あるいは魂の水のようにして生きている。万葉は、叔父が自宅を改造した古書店で働いている。本を愛し、言葉を愛することで二人はつながっている。それだけではない。万葉も沙羅も、内面の深いところから湧出する言葉によって自分の居場所を確かめている。
 人は、同じ本を手にしていても、同じようには読めない。むしろ、本とは、それを読む人の数だけ存在するとさえいえる。あるとき沙羅は「同じ風景を見て、思い起こすことが全然違う、当たり前だけどね。同じ言葉でも人によって意味とか重さとかやっぱり違うんだよね」という。
 作中には、宮沢賢治、ディケンズ、福永武彦、遠藤周作、池田晶子など実在する作家、実在する作品が頻出する。だが読者は、登場する本について知っている必要はない。ただ、万葉と沙羅の二人のあいだでは、著者と作品名という符号は、ときに互いのおもいを赤裸々に告げるよりも意味を豊かに持つことを知ってさえいればそれでよい。
 本書の魅力はそれだけではない。読者は、気が付かないうちに、過ぎ去る「時間」の世界ではなく、過ぎ行くことのない、「時」の世界へと導かれていくのである。
(文芸春秋・1815円)
1973年生まれ。女優・作家。『ティンホイッスル』『結婚写真』など。

◆もう1冊

中江有里著『ホンのひととき 終わらない読書』(PHP文芸文庫)

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