<東京裏返しガイド 吉見俊哉さんと歩く>(中)石神井川と飛鳥山 近代化の高揚の陰で

2021年12月4日 07時08分

関東大震災後の1930(昭和5)年に完成した音無橋の前で、石神井川について話す吉見俊哉さん=いずれも北区で

 歴史の地層を「裏返し」しながらの街歩きの二回目は、JR埼京線板橋駅東口近くの近藤勇墓所(北区)が出発地点となった。
 「一八六八年の薩長の占領(明治維新)で日本は近代国家になっていく。前回の上野公園では彰義隊の墓を見たが、新選組の近藤勇も薩長に制圧された側の人」。社会学者で東大大学院教授の吉見俊哉さんが、この場所で待ち合わせた理由を説明してくれた。

近藤勇の墓(左)と立像

 この日の「主役」は石神井川だ。川沿いを東に進み、飛鳥山に向かう。滝野川、音無川とも呼ばれ、かつては蛇行していたこの川の急流は、近代日本の軍事と資本主義を下支えした。「地形は川と台地が衝突する場所で複雑になります。それが板橋から王子にかけての滝野川一帯でした。飛鳥山は上野台地の一部です」(吉見さん)
 まずは川の北側の北区立中央公園へ。木立の中を進むと真っ白な建物が現れた。中央公園文化センターだ。童話の世界のような外観とは裏腹に、いくつもの戦争の記憶を刻む。

元陸軍の造兵廠だった北区立中央公園文化センター

 一九三〇(昭和五)年、東京第一陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)(兵器工場)の本部として建てられ、四五年の敗戦後に米軍が接収した。飛鳥山博物館の学芸員によると白く塗られたのは接収後の昭和二十年代。「外壁はスクラッチタイルでもともとは黄土色か薄茶色だった。ほかにも接収された建物が白く塗られ、将校用住宅などになった例がある」という。
 六〇年代にはベトナム戦争の野戦病院として使われた。世界で若者らがラブ&ピースを求め反乱を起こした六八年、この地でも住民らによる野戦病院反対運動が起きていた。
 石神井川沿いでの兵器製造は幕末にさかのぼる。文化センターより西に一キロほどの場所にあった加賀藩前田家下屋敷(板橋区)では、水車の動力を大砲製造に利用した。明治時代、周辺は火薬を製造する板橋火薬製造所となる。
 川沿いを歩くと、蛇行していた頃の形跡が半月形の緑地として残っている。音無さくら緑地(北区)は旧流路が遊歩道となっており、川の浸食作用で現れた地層も見ることができる。
 王子で川は地下に潜る。戦後の改修工事で飛鳥山の下にトンネルが掘られた。かつての流路は音無親水公園として整備されている。
 王子は、実業家渋沢栄一が、洋紙工場の建設地として選んだ場所だ。石神井川や千川上水など、水に恵まれていたことなどが決め手となった。一八七五(明治八)年に完成し、国も隣に紙幣をつくる工場を建てた(現国立印刷局王子工場)。「渋沢が作りたかったのは近代資本主義経済。そのためには洋紙が必要だった」(吉見さん)
 渋沢は工場を見渡せる飛鳥山に邸宅を建てた。「渋沢と徳川幕府の関係が深かったというのも影響しているだろう」と吉見さんは推測する。飛鳥山は八代将軍吉宗によって桜が植えられ、花見の名所となった。渋沢は幕臣として明治維新を迎えている。

渋沢栄一の書庫や接客場として使われた飛鳥山の青淵文庫

 国の体制が変わったからといって、人の気持ちががらりと変わるわけではないだろう。渋沢が書庫や接客に使った青淵文庫の美しいステンドグラスを見ながら、近代国家を支えた旧幕臣たちの心情に思いを巡らせた。
 飛鳥山を下りて都電荒川線で三ノ輪橋停留場へ。円通寺(荒川区)には上野にあった寛永寺の黒門が保存されている。一八六八年の彰義隊と新政府軍の銃撃戦で穴だらけだ。円通寺の住職が彰義隊の遺体を埋葬したのが縁で一九〇七年に移設された。「明治の初めに何があったかを物語る遺物があるのに、なぜ上野に戻さないのかと思う」と吉見さんは言う。

かつて上野にあった黒門に残る弾痕=荒川区の円通寺で

 白く塗られた中央公園文化センター。お世話になった場所に身を寄せた黒門。東京の複雑な地形には、敗者の歴史の陰影も屈折した形で刻み込まれている。
 (12月11日は「川から街を望む」です)
<よしみ・しゅんや> 1957年東京生まれ。東京大学大学院情報学環教授。著書に「東京裏返し 社会学的街歩きガイド」(集英社)「五輪と戦後」(河出書房新社)「東京復興ならず」(中央公論新社)など。
 文・早川由紀美/写真・由木直子
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