「世界の終わりだと思った」…80年前のハワイ・真珠湾奇襲 100歳超え、記憶なお鮮明に

2021年12月7日 06時00分
真珠湾の記憶 日米開戦80年㊤元米軍兵士の思い
 80年前の12月7日朝。23歳だったフランク・エモンドは、米戦艦「ペンシルベニア」の船尾でホルンの音色を確かめていた。青空の日曜日を迎えたハワイ・真珠湾。あと10分足らずで、海軍音楽隊の仲間とともに毎朝8時の「星条旗」の演奏を始める。だが、その日、エモンドのホルンが米国の力強さをたたえる国歌を奏でることはなかった。

◆機体の胴体に赤い斑点が…

左は、海軍音楽隊時代のフランク・エモンドさん=本人の代理人提供。右は、11月、米フロリダ州の自宅から退役軍人行事に出席するため首都ワシントンを訪れたエモンドさん=杉藤貴浩撮影

 「今でも目を閉じると、はっきり浮かんでくるよ」。今年103歳になったエモンドは声を絞り出す。「空から騒音が聞こえて顔を上げると、飛行機の編隊が近づいてきた。そのうちの1機から、何かがはがれ落ちたように見えた」
 直後、真珠湾全体に爆発音が響き、前方に真っ赤な火の手が上がった。やがて戦闘機が超低空で目の前に迫り、コックピットの男が機関銃を乱射してきた。弾丸はエモンドの頭上をかすめ、背後にあった戦艦の砲塔を鋭く鳴らした。「機体を振り返ると、胴体に赤い斑点が見えた」。それは日の丸だった。

◆「何もしないのに攻めてくるなんて…」

 
 「日本軍が攻撃してきたぞ」。フランク・エモンドと同じ戦艦「ペンシルベニア」で高さ20メートルの見張り塔に上っていたミッキー・ガニッチ=102歳=は、仲間の知らせに「冗談だろう」と返したのを覚えている。対日関係が日増しに悪化する中、真珠湾の兵士には監視用に日本軍の飛行機や戦艦の写真が配布され、警戒は高まっていた。「でも、こちらが何もしていないのに攻めてくるなんて」
 攻撃された艦船から漏れ出した油に引火し、海は一面の炎に包まれている。ガニッチの見張り塔の下で250キロ爆弾がさく裂した。「あの時もう少し下にいたら、私は今こうして話していないだろう」

左は、海軍時代のミッキー・ガニッチさん=家族提供。右は、11月、米カリフォルニア州の自宅から退役軍人行事に出席するため首都ワシントンを訪れたガニッチさん=杉藤貴浩撮影

 そこから1.5キロほど離れた戦艦「アリゾナ」に所属していたケン・ポッツ=100歳=は「世界の終わりだと思った」と振り返る。アリゾナは日本軍の爆弾が船内の火薬庫などに引火し、爆発、沈没。真珠湾の艦船で最多の1177人の死者を出す。燃え上がる戦艦から輸送船に移り、負傷者を対岸まで送り届けたポッツ。泡立つ海の向こうで全長200メートル近い船体は大きく傾き、海中に姿を消していった。
 二波に及んだ日本軍の攻撃後、戦艦ペンシルベニアで難を逃れたエモンドは仲間の遺体を運んだ。全身を激しく焼かれた体は、燃え残った靴や髪の毛を引っ張って動かしたという。「手や足は、皮膚がめくれてうまくつかめなかったからだよ」
 リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)―。米大統領ルーズベルトは翌日、日本に宣戦布告。米国は圧倒的な国力で真珠湾の打撃から巻き返し、3年半余りで日本を無条件降伏に追い込んだ。終戦直前には広島と長崎で2発の原子爆弾を使用した。

◆心に傷抱え「いまは友人」

 エモンドは戦後の1968年まで軍の音楽隊などに在籍。ガニッチも63年まで海軍兵士として過ごし、2人とも多くの子や孫、ひ孫に恵まれた。ともに今では同盟国の日本を「友人になった」と話す。

左は、海軍時代のケン・ポッツさん=米退役軍人省提供。右は、2018年撮影、米退役軍人省提供

 その思いはポッツも同じだ。「あの日の真珠湾で日本兵がしたことは、命令に従ったまでのこと。立場が逆だったら私もそうしたはずだ」
 だが、戦争を体験した人間一人一人の心の傷が単純ではないこともポッツは実感している。戦後、西部ユタ州で38年続けた中古車業。「誰も恨みたくない」と日々を送りながら、ポッツは引退まで、ただの1台も日本車を扱うことはなかった。(敬称略、ニューヨーク・杉藤貴浩)

真珠湾攻撃 1941年12月7日午前(日本時間8日未明)、米太平洋艦隊の拠点ハワイ・オアフ島の真珠湾を日本海軍の機動部隊が急襲。日米開戦の発端となった。米側は2403人が死亡、多数の戦艦や航空機が壊滅的被害を受けた。米軍の反撃などで日本側も64人が戦死。日本からの外交交渉打ち切りの最後通告が遅れ奇襲となったことで、米国世論は「だまし討ち」と沸騰した。

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 米国と日本、世界を変えた真珠湾攻撃から80年。歴史をくぐり抜けた元兵士や日系住民らの思いを3回にわたり紹介します。

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