<日米開戦80年 戦禍の記憶>橋に刻まれた傷痕 永代橋(隅田川)焼夷弾直撃

2021年12月8日 07時06分

隅田川にかかる永代橋。焼夷弾の落ちた跡はほぼ中央部にある=中央区で

 8日で太平洋戦争開戦から80年を迎えた。戦争で焦土と化した東京は戦後、世界有数の都市に成長。戦火の痕跡はすっかり消えたかに見えるが、いまなお都心の橋には戦争の傷痕が残る。橋のエキスパートである元都庁マン、紅林章央(くればやしあきお)さん(62)とともに永代橋(中央・江東区)と鎌倉橋(千代田区)の2橋を訪れた。
 隅田川にかかる永代橋。橋の真ん中辺りで紅林さんが「へこんでいるのが見えますか」と上を指さした。目を凝らすと、両サイドのアーチを結ぶ梁(はり)のような上横構(うわよここう)に、へこんだ部分があった。都庁で建設局橋梁(きょうりょう)構造専門課長を務めた紅林さんは「焼夷弾(しょういだん)が当たった跡だと伝えられてきました」と説明。約十万人が死亡した一九四五(昭和二〇)年三月十日の東京大空襲で焼夷弾が直撃した跡ではないか、と指摘する。

B29が投下した焼夷弾によりへこんだ永代橋の上横構

 関東大震災(一九二三年)の復興事業を進めた国の復興局で橋梁課長だった田中豊(後に東京大教授)らは、軍艦用の高級鋼材を使用して架橋。頑丈さは折り紙付き。東日本大震災でも影響はなかった。
 架橋の裏にはワシントン軍縮会議(二一年十一月〜二二年二月)があったことは、あまり知られていない。第一次世界大戦後、戦勝国の建艦競争を制限するため、条約で米英日の主力艦保有比率は5・5・3に定められた。このため日本海軍は建造中の戦艦を廃艦にするなどした。田中らが使用したのは、このリストラで余った鋼材だったという。「もし条約が採択されなかったら、永代橋はこんな立派で丈夫な橋にはならなかった」と推し量った。
 次に、高層ビルが林立する千代田区大手町の北端、日本橋川にかかる鎌倉橋へ。震災復興事業で神田と大手町をつないだ橋だ。「復興後にできた橋は素のままの美しさを求める流れが生じ」(紅林さん)、コンクリートの表面に同色のモルタルを塗り、美しさを演出したという。

鎌倉橋で、米軍機の機銃掃射による弾痕について話す紅林さん

 橋のたもとに「日本本土市街地への空襲が始まる」と戦争を伝えるプレートが立つ。「欄干には一九四四年十一月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小三十個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えている」とある。欄干に銃弾でえぐられた跡が点々と残っている。

日本橋川にかかる鎌倉橋。手前が大手町側

 架橋時には欄干の窓に鉄製の飾りが施されていた。しかし戦争で供出され、今もそのまま。紅林さんは「将来、この飾りも復元してほしい」と訴えた。

完成直後の鎌倉橋。欄干の窓に鉄製の飾りが取り付けてあった=1929(昭和4)年9月撮影、東京都建設局所蔵、いずれも千代田区で

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 このほか八王子市の甲州街道にかかる大和田橋に、終戦直前の四五年八月二日未明の空襲の痕跡があり、アクリル板越しに弾痕を見ることができる。

◆「西の風、晴れ」

 ハワイ・真珠湾の奇襲攻撃を目指した機動部隊などに開戦日(十二月八日)を知らせるため、連合艦隊旗艦「長門」から送った電報「ニイタカヤマノボレ一二〇八」はあまりにも有名だが、陸軍も英国の東南アジアの拠点、シンガポールの攻略を目指してマレー半島上陸を企図。その遂行を知らせた暗号電文の隠語は「ヒノデハヤマガタ(トス)」だった。
 外務省からも在外公館に向けて「西の風、晴れ」が送られた。「日米開戦す、重要機密書類は焼却せよ」の暗号だった。日本放送協会の海外放送で十二月八日午前四時に天気予報として読み上げられ、その後も繰り返し放送された。
<永代橋> 初代は江戸時代に架橋。明治の初めに架け直され、1897(明治30)年には日本初の鋼鉄製のトラス橋に再架橋されたが、関東大震災で木材部分が炎上。1926年、再び架け直された。長さ184.7メートル、幅25メートル。誕生時は隅田川の最下流の橋で、「帝都の門」と評された。2007年、国の重文に指定。
<鎌倉橋> 東京駅に近い千代田区大手町の一角の、日本橋川にかかる。永代橋同様、関東大震災の復興事業で造られ、1929(昭和4)年に完成。長さ30メートル、幅22メートル。橋の名称は、江戸城築城の際、鎌倉から送られた石材がこの付近に陸揚げされ、その河岸が鎌倉河岸と呼ばれたことに由来する。
文・加藤行平/写真・木口慎子
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