開戦の日に考える 坂口安吾と憲法9条  

2021年12月8日 07時51分
 作家坂口安吾(一九〇六〜五五年)は四一(昭和十六)年十二月八日、太平洋戦争の開戦を、この年八月まで住んでいた神奈川県小田原の「ガランドウ」と呼ぶ友人宅で迎えました。
 安吾はこの日のことを戦後、こう振り返っています。
 <オカミサンが来て、なんだか戦争が始(はじま)つたなんて云(い)つてゐるよ、と言つたが、私は気にもとめず午(ひる)まで本を読んでゐて、正午五分前外へでゝ戦争のビラにぶつかり、床屋をでてガランドウに会つて二宮へ来てマグロを食ひ焼酎をのみ酔つ払つて別れて帰つてきたゞけであつた>(ぐうたら戦記)
 終戦の翌四六(同二十一)年四月「落ちよ、生きよ」と説く「堕落論」で一躍人気作家となった安吾ですが、当時はまだ各地を転々として、文芸誌や都新聞(東京新聞の前身)などに寄稿して過ごす「放浪の時代」でした。

◆勝利夢見ず滅亡を確信

 開戦に高揚し、戦争を賛美する作家もいる中、安吾の振る舞いから高ぶる様子は感じられません。むしろ生活が日々窮屈になることを感じ、開戦の現実を冷徹に受け止めていたようです。
 <尤(もっと)も私は始めから日本の勝利など夢にも考へてをらず、日本は負ける、否、亡(ほろ)びる。そして、祖国と共に余も亡びる、と諦めてゐたのである><その日私は日本の滅亡を信じ、私自身の滅亡を確信した>(同)
 安吾は軍隊に召集されることを最も恐れていました。徴兵逃れのために、四四(同十九)年には日本映画社の嘱託となります。開戦時三十五歳という年齢もあって結局、徴兵されませんでした。
 かといって熱烈な反戦主義者でもなかったようです。例えば、四三(同十八)年、海軍の山本五十六元帥の訃報に接しては、こう書き残しています。
 <山本元帥の戦死とアッツ島の玉砕と悲報つづいてあり、国の興亡を担ふ者あに軍人のみならんや、一億総力をあげて国難に赴くときになつた>(現代文学「巻頭随筆」)
 開戦時には敗戦や国や自身の滅亡をも覚悟していた安吾ですが、戦況の悪化につれて自らを奮い立たせていたようでもあります。
 ただ、そこから読み取れるのは精神論ではなく、戦況を冷静に見つめる観察眼と洞察力です。
 <実際の戦果ほど偉大なる宣伝力はなく、又(また)、これのみが決戦の鍵だ。飛行機があれば戦争に勝つ。それならば、ただガムシャラに飛行機をつくれ。全てを犠牲に飛行機をつくれ。さうして実際の戦果をあげる><ただ、戦果、それのみが勝つ道、全部である>(同)
 当時、強いられていた精神力や大本営発表の欺瞞(ぎまん)を見抜き、必要なのは生産力や国民を鼓舞する実際の戦果という合理的思考です。
 今では当たり前ですが戦時中としては異色でしょう。本質を見抜き、実質を重んじる精神は、戦後「堕落論」などに実を結びます。
 堕落論の約半年後、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を三大原則とする日本国憲法が公布されます。中でも安吾が高く評価したのが、国際紛争を解決する手段としての戦争と、陸海空その他の戦力を放棄した九条です。

◆戦争放棄活用が利口、と

 <私は敗戦後の日本に、二つの優秀なことがあったと思う。一つは農地の解放で、一つは戦争抛棄(ほうき)という新憲法の一項目だ><小(ち)ッポケな自衛権など、全然無用の長物だ。与えられた戦争抛棄を意識的に活用するのが、他のいかなる方法よりも利口だ>(文芸春秋「安吾巷談(こうだん)」)
 <軍備をととのえ、敵なる者と一戦を辞せずの考えに憑(つ)かれている国という国がみんな滑稽なのさ。彼らはみんなキツネ憑きなのさ><ともかく憲法によって軍備も戦争も捨てたというのは日本だけだということ、そしてその憲法が人から与えられ強いられたものであるという面子(メンツ)に拘泥さえしなければどの国よりも先にキツネを落(おと)す機会にめぐまれているのも日本だけだということは確かであろう>(文学界「もう軍備はいらない」)
 東西冷戦に突入し、核戦争の恐怖が覆っていた時代にもかかわらず、軍備増強より九条の精神を生かす方が現実的と喝破します。
 日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増していますが、九条改憲や防衛力増強が打開策なのか。本質を見抜く安吾の精神は古びるどころか、今なお新鮮味を持って私たちに問い掛けます。

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