無名の人に届く語り 「内ゲバ論」を書き下ろした 長崎浩さん(評論家)

2021年12月11日 12時43分
 五十年ほど前、日本でも激しい街頭闘争があった。その頃に登場した論客、評論家の長崎浩さん(84)が、新刊を出した。このところは鎌倉時代や幕末の政治を論じていたが、今回は“あの時代”がテーマである。
 背筋が伸びた細身の人。東京大時代の学生運動の同志、評論家の西部邁さんはかつて「生まじめなスタイル」という表現で、長崎さんのことを書いている。
 一九六〇年六月十五日。安保条約改定阻止を訴え、十数万人が国会を取り巻いた。長崎さんらは国会に突入し警官隊と衝突。仲間の樺(かんば)美智子さんが圧死した。長崎さんは警棒で頭を割られたが「何も覚えてない」。
 デモ隊の何人もが逮捕され、学生の運動を主導していたブント(共産主義者同盟)は解体へ向かう。ブントは、共産党と袂(たもと)を分かち、後に「新左翼」と呼ばれた政治党派の一つ。
 「国会突入は本当に一瞬のことだけど、思いのほか後を引いた感じ。よせばいいのに、六〇年代はマルクス主義の後始末でした」
 逮捕を免れた長崎さんは東京大物性研究所助手になり、「そのままなら研究者になっていた」。だが、六八年、パリの五月革命など世界的な学生運動が日本でも起きる。全共闘運動である。全国の大学の八割に当たる百六十五の大学に広がり、うち七十校で占拠とバリケード封鎖が行われた。
 「こりゃ何だ? と思いました。山本義隆さんら理系の活動家と付き合いがあり、そんな連中から占拠した時計台に、行きましょう! 行きましょう! って誘われました」
 そうした中で発表し、デビュー作となったのが『叛乱(はんらん)論』。六〇年安保闘争を全共闘運動の中で反芻(はんすう)し、政治思想に仕立て上げたいという思いだった。
 「叛乱」とは、「左右のイデオロギーを問わない反権力で、組織の形としては評議会を作る。既成の組合や大学自治会などに依存しない。直接民主主義的でアナーキー。綱領もない」といった集団行動だという。
 六〇年安保、全共闘。それら新左翼運動の功罪は?
 「功は、自由ということだったと思う。たとえば当時、建前とはいえ科学的真理だと信じられていたマルクス主義からの解放です」
 新刊『叛乱を解放する 体験と普遍史』(月曜社)は、この功罪を振り返り、新左翼党派内部の暴力抗争(内ゲバ)を書き下ろしで論じた。重い「罪」についてである。
 「内ゲバに対する道徳的な警戒感を和らげようという意図は全くない。むしろ当事者に言いたい。ただ、洗いざらい告白して懺悔(ざんげ)して若い人の許しを請え、というわけじゃない。免罪されるわけありませんから」
 同書では元活動家らの手記などを点検しているが、「内ゲバそのものに触れた本が一冊もないのはどういうことか」と残念がる。
 内ゲバについて新左翼党派が主張する《政治路線の間違い》《暴力も武器も「教育的措置」》といった弁解には納得できない。長崎さんが属していたブントから、革共同(革命的共産主義者同盟、中核派・革マル派に分裂)に移ったメンバーがいることへの複雑な思いも同書に感じられる。
 七〇年が最初とされる新左翼の内ゲバ殺人。本紙では、二〇〇四年を最後に記事はない。警察は内ゲバの死者を百人超とするが、同書は《殺人未満の犠牲者》の存在を指摘。長崎さんは「失明、半身不随…死者の何倍もの被害者を忘れてはいけないと思う」と語る。
 革命はあり得ないが、叛乱はある-というのが長崎さんの見解だ。確かにコロナ禍の前は、香港など各地で大衆運動が起きていた。
 日本での運動の最大のテーマは「憲法九条改正」と断言する。それを踏まえ、新左翼の部外者でも共有できる内ゲバの「語り」が生まれることを願っている。
 《歴史の語りは無名の一人の当事者の存在にまで届くものでなければならない。これに応じて一人の当事者が歴史を語り出す。不透明で語り難い過去はこうでもしないと歴史として成仏することができない》
 同書の「生まじめな」呼びかけだ。年が明ければ、あの連合赤軍事件から五十年の冬となる。 (中村信也)

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