福島初の震災遺構「請戸小」が訴えるものとは 大震災、原発事故の記憶をどう伝えていくか

2021年12月13日 06時00分

震災2カ月後の請戸小学校体育館。震災当時、卒業式の準備が行われていた。床は大きく段差ができ、津波で泥だらけになっている=2011年5月、福島県浪江町で(陸上自衛隊提供)

 ひしゃげた窓枠、大きく破れた天井、泥だらけのオルガン。時計などを管理する複合盤は壁から引きはがされびている…。東日本大震災の津波の爪痕を生々しく残す福島県浪江町の請戸うけど小学校が県内初の震災遺構に認定され、10月から一般公開されている。児童たちは近くの山に逃れ無事だったが、請戸地区では津波で127人が亡くなり、原発事故で6年間、避難指示が続いた。震災や原発事故の記憶を後世にどう伝えていくのか。模索が続いている。(片山夏子)

◆「津波が来る」山へ走った

2011年3月11日の5時間目。請戸小の体育館では、5年生が卒業式の準備をしていた。6年生だった横山和佳奈さん(23)の教室では、帰りの会が行われていた。地震が頻発しており、揺れが始まったとき、横山さんは「また地震だ」と素早く机の下に潜った。だがその直後、立っていられないような揺れが襲ってきた。机ごと体が激しく揺れ、床を滑る。叫んでいた子もいた。長い揺れが収まったとき「外に出るよ」と担任に言われ、ジャージーに上履きのまま、横山さんは外に飛び出した。
 既に帰宅していた1年生11人以外の82人の児童が校庭に並んだ。請戸小の海からの距離は約300メートル。「津波が来る」と同級生の男児が叫んだ。「ラジオで津波が3メートルと言ってる」という先生も。約1.5キロ離れた大平山に避難することになり、高学年の子が低学年の子の手をつなぐなどして、余震で揺れる地面を必死で走った。横山さんが途中で振り返って海の方を見ると、もやがかかっているように見えた。
 児童を迎えに来た親もいたが、先生たちは「避難所で会いましょう。またはついて来てください」と避難を優先した。避難車両で渋滞する道を何とか渡り大平山に。ところが登り口が見つからず、4年生の男児が知っていた道から、ようやく山に登れたことを横山さんは後から知った。
 車いすの子は先生がおぶって登った。「自分が寒くて震えているのか、怖くて震えているのか、地面が揺れているのか分からなかった」。途中で津波のゴゴゴーという音を聞いた児童もいたが、横山さんの耳には風と木のこすれ合う音が後々まで残った。雪がちらついたことも覚えていない。

◆地元の友達に会いたくて…伝統の「田植踊」を続ける

請戸小学校の震災遺構の開館記念式典で、請戸地区の伝統芸能「田植踊」を披露した横山和佳奈さん(中)ら=福島県浪江町で

 山の反対側に下りると、道路が地割れしていた。寒さと不安でいっぱいになっていた時、通り掛かったトラックが乗せてくれることになった。その場にいた100人近くが荷台に乗り、避難所の役場に。次々家族が迎えに来る中、横山さんの家族は現れなかった。横山さんの家は海のすぐそば。街中にいるはずの両親と弟は無事だと思ったが、家にいた祖父母は逃げられたのか。親が迎えに来ないのは横山さん含め2人だけ。不安が膨らむ中、電話で父親と連絡が取れ、親が迎えに来なかった友達と眠った。
 翌日、両親と弟と合流したが、祖父母の姿はなかった。そして請戸がどうなっているかを見る間もなく、原発事故の避難で浪江町津島、葛尾村、母の実家のある郡山市へと避難した。祖父母の行方はなかなか分からなかった。請戸に戻ればきっといる、そう信じこもうとしたが、亡くなっていたことが後に分かった。
 避難後、地元の友達に会いたくて請戸伝統の「田植踊たうえおどり」を続けた。請戸訪問がかなったのは3年後。家は基礎と玄関の石畳だけになっていた。15メートルの津波は請戸小の2階の床面まで押し寄せ、1階は浸水し激しく破壊されていた。黒板にはたくさんの人のメッセージがあった。「やっと請戸これた! 踊りがんばるよ!!」。そう書き残した。
次ページ「つらい記憶も後世に」に続く
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