復員の父、PTSDだった 戦争がゆがめた家族の形 武蔵村山に交流館

2021年12月14日 07時07分

慶次郎さんの軍歴申立書を広げ「戦地では優秀で部下もいたなんて想像もできない」と話す黒井秋夫さん=いずれも武蔵村山市で

 「『どうしようもないおやじ』だった父は、実は戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいた」。武蔵村山市の黒井秋夫さん(73)は父・慶次郎さんの死後に心の傷を負っていたと気付き、父の人生と向き合い続けている。昨年五月、自宅の敷地に建てた「PTSDの日本兵と家族の交流館」は、同じ経験を持つ家族の交流の場となりつつある。

PTSDの日本兵と家族の交流館

 広さ十平方メートルほどの木造の交流館。壁一面に慶次郎さんの経歴や、これまでに戦争経験者の家族らから聞き取った内容が展示されている。本棚には慶次郎さんの従軍アルバムや戦争関連の資料が並ぶ。
 山形県出身の慶次郎さんは、満州事変の翌年の一九三二(昭和七)年に二十歳で従軍し、中国・吉林省に赴いた。戦後は建設現場を渡り歩いて黒井さんら息子三人を育て、八九年に七十六歳で亡くなった。
 周囲からずっと「変わった人」と見られてきた。無気力で、短期の仕事を転々とし、笑顔を見せることもない。暴力を振るうことはなかったが、人付き合いを避けた。年々無口になり、晩年は孫が何度呼んでも返事をしなかった。「ああはなるまい」。黒井さんは父を軽蔑していた。
 黒井さんがPTSDに思い当たったのは二〇一五年。世界各地を巡る「ピースボート」の船内で、ベトナム戦争から帰還した米兵が実態を語る映像を見て、父の姿と重なった。船内で父親を語り合う場を設けると、「酒乱だった」「母を殴っていた」と打ち明ける人が相次いだ。「復員した日本兵も一定数はPTSDを抱えていたに違いない」

慶次郎さんの従軍アルバムの1ページ。「匪賊討伐」に従事したことが記されている

 父はなぜ発症したのか。それを知ろうと従軍アルバムを開くと、きりりと引き締まった顔の若者の写真があった。初めて見る表情だった。原因は分からなかったものの、アルバムと軍歴の申立書からヒントは得られた。「かなり残虐なことをしたのでしょう」。慶次郎さんは、中国で農民に紛れたゲリラを討つ作戦「匪賊(ひぞく)討伐」に従事。優秀な兵士として「善行証書」を付与されていた。
 黒井さんは一八年に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を設立。交流館の開館後は、訪れる人に自身の経験を伝え、講演会を開いてきた。中には「父が母の稼ぎを酒につぎ込み、アルコールに依存していた」と語る人も。メールや電話を含め、家族への暴力や依存症などPTSDの影響が疑われる相談が三十件以上寄せられた。
 活動を通じて、戦争によるトラウマ(心的外傷)を研究する中村江里・広島大大学院准教授とも知り合った。中村さんは「復員日本兵の精神疾患に関する国の調査は、これまでほとんど行われてこなかった」と課題を指摘する。
 人知れず苦悩を抱えていた父を今はふびんに思う。「戦争がなければ、貧しくとも情の通った親子でいられたかもしれない」と黒井さん。戦争が家族の形をゆがめた事実を後世に伝えていかねばと誓う。

交流館で研究者のオンラインインタビューを受ける黒井さん(右)。そのかたわらには地元の子どもたち

 黒井さんは、交流館を訪れる子どもたちに希望を託す。これまでの来館者は千三百人余り。八割は放課後に立ち寄る小学生らだ。菓子がもらえるから通称「ただや」。友人と毎週来ている小学四年の山中ららさん(10)は「黒井さんの横でいつもくだらないおしゃべりをしてます」と笑った。
 「今はそれでいい。大きくなった時に、ここの活動を理解して手伝ってくれる子もきっと出てくるでしょう」。黒井さんはそう言って目を細めた。
 文と写真・林朋実 
 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へ。

関連キーワード


おすすめ情報

TOKYO発の新着

記事一覧