<竿と筆 文人と釣り歩く>「蘆声(ろせい)」幸田露伴

2021年12月18日 07時03分

両岸が公園として整備され、のどかな風景が続く旧中川=いずれも墨田区で

◆120年前の風情 今なお

 代表作の「五重塔」を発表、作家としての地位を確立した幸田露伴は、一八九七(明治三十)年に現在の墨田区東向島一丁目に移り住み、酒屋の別荘だった建物を「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と名付けて、妻や三人の子供、書生らとにぎやかに暮らした。
 小説「蘆声(ろせい)」は、その当時を回顧するスタイルで描かれている。露伴によると「安康(あんこう)の生活に浸(ひた)って、朝夕を心にかかる雲もなくすがすがしく送っていた」時代。早朝に仕事を終えると、釣り竿(ざお)を担いで、麦わら帽を被(かぶ)り、腰に手ぬぐいをぶら下げて、毎日のように中川(現在の旧中川)べりに出かけたという。
 そこで一人の男児と出会った。貧しい身なりの男児は、露伴がお気に入りの場所で短い竿を出していた。
 「そこは私が坐(すわ)るつもりにしてあるところだから」と大人げない言葉を発したところから、二人のやりとりが始まる。男児は「俺は遊びじゃない」と反抗した。母親に「魚でも釣っておいで」と命じられたのだという。後ろめたさもあり、釣り具を貸し、餌をあげ、話をする。やがて男児の本当の母親は一年前に亡くなったのだと知る…。
 名の知れた流行作家と野育ちの子供と、境遇は大きく違っても魚を釣りたい気持ちは同じ。そこから始まるやりとりがおかしく、最後にほろりと涙を誘う。そんな掌編だ。
 さて二人が出会ったのは、どんな場所だろうか。
 小説には「中川の平井橋の上流」、「西袋」という場所だとある。しかし百二十年以上も昔の話だ。たとえ場所を特定できても大きく様変わりしているにちがいない。そう考えながら、足を運んでみて驚いた。露伴が愛した「黄茅白蘆(こうぼうはくろ)の洲渚(しゅうしょ)、時に水禽(すいきん)の影を看(み)る」といった風情は、意外にも色濃く残っているのだ。
 中川は一九二四年に荒川放水路が完成したことにより、下流部分が分断された。この部分約七キロは、江戸時代に「四十九曲がり」と呼ばれた姿を残し、大きく蛇行しながら市街地を流れている。両岸は「旧中川水辺公園」として整備され、散歩道となっている。「西袋」の地名は地図にはないものの、推理すると、中平井橋とゆりのき橋の間、墨田清掃工場の付近だろう。

魚をもらおうと、釣り人の近くで待つコサギ

 川辺に立つと、水面は足元にあり、岸辺には葦(あし)が茂っている。水中ではボラの稚魚の群れが渦を巻いて泳いでいる。地元の人に好ポイントを教えてもらい、十分ほど下流に歩いた平井橋へ。付近には釣り人も多く、ほとんどがハゼ狙いだが、中にはセイゴやクロダイを釣った人もいるそうだ。そういえば露伴が釣ったのもセイゴだった。
 竹製の和竿を持ち出し、冷凍ホタテを餌にした。
 近場を探ると、黒いダボハゼが入れ掛かりになる。
 傍らに人慣れした白いサギが来て、ダボハゼを投げてもらうのを待っていた。隣に座る太公望氏が「オイって呼んだら飛んでくるよ。ほらね」と魚を投げるとサギは小躍りしている。
 上げ潮になり、川が逆流を始めると、涼しげなマハゼが釣れ出した。頭がしびれるほどのどかな時間だ。

平井橋下流で筆者が釣り上げたマハゼ(左)とダボハゼ

 夕暮れになった。小説の最後も夕暮れだった。
 「夕風が袂(たもと)涼しく吹いて来た。少年は川上へ堤上を辿(たど)って行った。暮色は漸(ようや)く逼(せま)った」「自分は少時(しばらく)立って見送っていると、彼もまたふと振返(ふりかえ)ってこちらを見た」「五位鷺(ごいさぎ)がギャアと夕空を鳴いて過ぎた」   
<幸田露伴>(1867〜1947年) 幕末の江戸下谷(現在の台東区)に生まれる。「五重塔」「運命」など文語体の小説で、日本の近代文学の礎を築いた。釣聖と呼ばれるほどの釣り好きで、「幻談」など釣りを題材にした作品も多い。
文・坂本充孝/写真・田中健
次回は来年1月29日に掲載予定。
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