東京五輪は誰のための祭典だったのか 競技場は無観客 選手間・合宿地で絆も深められず…

2021年12月19日 06時00分
東京五輪の閉会式が始まり、フェンスの外に集まった人たちで混雑する国立競技場周辺=8月8日

東京五輪の閉会式が始まり、フェンスの外に集まった人たちで混雑する国立競技場周辺=8月8日

<スポーツ2021年末回顧⑤>
 地下鉄の階段を上って外に出ると、視界に飛び込んできたのは異様な光景だった。
 東京五輪の主会場である国立競技場を、高さ3メートル以上はありそうな仮設の塀がぐるりと取り囲んでいる。7月末のうだるような暑さの中、塀の外に集まる人々。せめて雰囲気だけでも、祝祭の熱気を感じようとしているのか。彼らの視線を背中に感じつつ、セキュリティーゲートをくぐって陸上競技の取材に向かう。
 がらんとした敷地内で、地元の小学生が育てたというアサガオがひっそりと風に揺れている。その先に、国際オリンピック委員会(IOC)関係者のためのラウンジと観覧席の場所を示す案内板。「誰のための大会なんだ」。期間中、釈然としない思いを最後まで打ち消せなかった。
 この夏。新型コロナウイルスは国内外で猛威をふるい、東京都内の感染者は日に日に増えていた。どんな形であれ放映権料を確保したい思惑が透けて見えるIOCと、それに追従する大会組織委員会は、「アスリートファースト」を連呼して無観客開催を決定。努力が報われた選手たちの奮闘が共感を呼び、日本勢の活躍もあって盛り上がったのは間違いない。ただ、本来の五輪のあり方ではなかった。
 各競技の世界選手権との違いをもたらし、五輪を五輪たらしめているのは何か。青くさい理想かもしれないが、それはスポーツによる平和の実現と相互理解を掲げている点だろう。世界中のアスリートが選手村で生活をともにし、会場で競い、観衆が感動を共有する。各国の合宿地では、地域住民と選手団が交流を深める。IOCに言わせれば、五輪を通して世界の結束が深まり、一枚岩となってウイルスに立ち向かうはずだった。
 ところが実際は大半の会場に観客を入れず、感染症対策で選手同士が絆を深めるのも難しかった。変異株の出現で世界情勢は混迷を極め、五輪を機に各国が連携を取り戻したなどという話はついぞ聞かない。多くの制約の中で強行された祭典は、五輪憲章にうたわれた存在意義の多くを欠き、もちろんコロナ禍の先の道筋を示すこともなかった。
 五輪会場を望む駅で耳にした若者たちの会話が、今も頭にこびりついている。「そういえば東京でオリンピックやってたんだ」。多くの国民にとっては、まるで遠い国の出来事のように感じられていたのかもしれない。(佐藤航)

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