<あしたの島 沖縄復帰50年>(1)本土に響け琉球箏 川崎沖縄芸能研究会

2022年1月1日 07時27分

「かぎやで風」を演奏する名嘉さん=横浜市鶴見区で

 沖縄の本土復帰から今年で五十年になる。米軍統治下にあった人々は、基地のない島と平和憲法のもとへの「復帰」を渇望したが、いまも「本土並み」の願いは実現していない。それでも、沖縄の声を地域でつなぎ、ともに未来を描こうとする人々がいる。京浜工業地帯がある川崎・横浜を中心に、沖縄にルーツをもつ人々とともに発展してきた神奈川の地から、わたしたちの「島」のあしたを考える。
 「今日の誇らしゃや 何にぎゃな例える(今日の誇らしさは何に例えよう)」
 「レ」と「ラ」の音がない琉球音階でゆったりと箏(こと)を奏でながら、名嘉(なか)ヨシ子さん(74)=横浜市鶴見区=が「かぎやで風」の一節を軽やかに歌う。沖縄の祝いの席に欠かせない曲だ。「日本の箏と同じですが、弦をゆるく張っている。柔らかい音が出るんです」
 二〇一二年から川崎沖縄芸能研究会会長を務める琉球箏の名手。国指定重要無形文化財「組踊・琉球舞踊」総合指定保持者でもある。
 一九四七年に那覇市で生まれ、九歳で箏を習い始めた。六九年に指導者の資格を取得、結婚を機に七二年に鶴見区に移り住んだ。沖縄が本土復帰を果たした直後のことだった。
 米軍占領下の沖縄は車も右側通行の米国式。基地関係者がどんな事件を起こしても罪に問われることはない「治外法権」だった。幼い少女たちが米兵に暴行される事件も後を絶たなかった。激しい沖縄戦の傷痕も島のそこかしこに生々しく残っていた。日本に復帰すれば、米軍の横暴もやむと信じていたが、「復帰後もそれほど変わらなかった」と振り返る。
 一方、本土では驚くほど沖縄の現状が知られていなかった。「英語を話すの?」「何を食べているの?」と聞かれたこともある。「沖縄のことを全く知らない人もいて、見えない差別があった」と名嘉さん。鶴見に来て一年ほどたったころ、沖縄の伝統芸能を守る人々の存在を知った。地域には故郷と同じ音楽があふれていた。「異文化ともいえる沖縄の音楽が盛んでびっくりした。大好きな故郷の箏をここでもやっていることがうれしかった」
 各地にある沖縄県人会でも、川崎沖縄県人会は最も長い歴史を持つ。現在の川崎競馬場(川崎市川崎区)の場所にあった富士瓦斯(がす)紡績の工場で働く沖縄出身の労働者の互助組織として、二四(大正十三)年につくられたのが始まりだ。
 戦後、沖縄戦の惨状が本土にも伝わってきた。「沖縄芸能の歴史が絶えるかもしれない」との危機感から、川崎の地で沖縄の文化を守ろうと四九年に結成されたのが同研究会だった。焼け残った衣装や三線(さんしん)を持ち寄り、歌い踊り続けた。
 同研究会は五二年に川崎市無形文化財になり、五四年には、神奈川県無形文化財にも指定された。
 現在の会員は約四百人。八割は、沖縄にルーツのない人だという。新型コロナウイルス禍で途絶えていた毎年秋の「沖縄芸能大会」も二月二十七日に二年ぶりに市内で開催される予定。名嘉さんは「先人が守ってきた伝統芸能を絶えることなく伝承したい」と話す。伝統芸能を通して、沖縄と地域をつなぐ動きも広がっている。昨年六月二十三日の「慰霊の日」に、川崎を拠点に三線や琉球舞踊に取り組む女性三人が、平和を考えるつどいを川崎市平和館で初めて開いた。

慰霊の日に初開催された「平和のつどい」=昨年6月、川崎市中原区で

 メンバーの一人で同市多摩区の三線・笛師範の久保田清美さん(58)は、沖縄県浦添市で生まれ育った。「川崎では慰霊の日を知らない人が多くいた」と久保田さん。久保田さんの祖父も沖縄戦で亡くなっている。「沖縄では、慰霊の日はサイレンが鳴り、皆が黙とうをささげる。平和について思いをはせる日。そのことを知ってほしい」と願う。(竹谷直子)
<沖縄の復帰> 1952年発効のサンフランシスコ講和条約で沖縄は本土から分離され、米軍統治下に置かれた。米軍は「銃剣とブルドーザー」による強制的な土地接収で軍用地を拡大、米兵による事件も頻発した。本土復帰運動の高まりを受け、69年11月に当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領が沖縄返還に合意。72年5月15日に本土復帰した。

関連キーワード


おすすめ情報

神奈川の新着

記事一覧