<あしたの島 沖縄復帰50年>(2)移民政策で南米に…ルーツ探る旅、今も ボランティア団体「IAPE」

2022年1月3日 07時15分

「沖縄へルーツを探る旅」の思い出を語る沼尾実さん(左)と比嘉なみえさん=横浜市鶴見区で

 横浜市鶴見区で約三十年前、「外人」といわれた日系人がいた。祖父母らが沖縄から移住した先の南米で生まれ、連れてこられた子どもたちだ。同区の市立中学校で教員をしていた沼尾実さん(68)は一九九四年夏、日本の暮らしに戸惑う彼らを沖縄へ連れて行った。「ルーツを知って、前向きな気持ちになってほしい」。願いを込めた旅は、今も続いている。
 京浜工業地帯の一角にあり、多くの沖縄県民が職を求めて集まった同区では、九〇年の改正入管難民法施行以降、ボリビアやブラジルなど南米から、日系人の出稼ぎが増えた。その中には戦後、琉球政府の移民政策で沖縄から送り出された移住者の子孫もいた。
 「連れてこられた子たちはアイデンティティーに苦しんでいるようだった」と沼尾さんは振り返る。生まれた土地では「日本人」と差別されたが、日本語は話せない。来日してみれば、口にするスペイン語やポルトガル語をばかにされた。不登校になる子もいた。
 沼尾さんは彼らと向き合い、祖父母らの故郷を訪れたがっていると知った。暮らしに余裕のない保護者に代わり、九三年に立ち上げたボランティア団体「IAPE(イアペ、外国人児童生徒保護者交流会)」で「沖縄へルーツを探る旅」を始めた。当てもないまま現地の財団法人に連絡し、人員と資金の協力を得た。参加者の祖父母らの名前だけを頼りに親戚を探し、訪ね歩いた。初回は約二十人が親類宅や戦跡を巡った。
 夏休みの恒例になった旅は二十六回を数え、保護者も含め延べ四百人が参加した。「祖父母が沖縄戦を生き残ったから自分がいる。頑張らないと」と決意した子、親戚から歓迎されて涙を流した子もいた。
 曽祖父がペルーに渡った高校三年比嘉(ひが)なみえさん(17)は同区で生まれ育った。名字に「らしさ」を感じつつも、沖縄は遠い存在。だが、二〇一八年に旅に参加し、存在さえ知らなかった父親のいとこと、その娘に会った。「私の顔に似てるなってすぐ思った。地元が増えたみたいでうれしい」と声を弾ませる。

曽祖父の生家跡地で親戚と集合写真を撮る比嘉なみえさん(後列左から2人目)=沖縄県国頭村で(沼尾実さん提供)

 沼尾さんは三十回の節目で旅を終えるつもりだが、個別の支援はその先も続けるという。原動力は「沖縄へ行きたい」と笑顔を見せる子どもたちだ。旅を経て前向きになる姿に元気をもらうと同時に、自分が戦争や政治に翻弄(ほんろう)された沖縄の歴史に目を向けてこなかったことを指摘されているようにも感じるという。
 「戦後にまで政策によって移住した人たちがいるなんて思いもしなかった。遠く感じる沖縄の問題は、身近な人たちにつながっていた。同じ地域で暮らす家族として、これからも関わっていきたい」(米田怜央)
<琉球政府による移民政策> 太平洋戦争後、東西冷戦の下で沖縄を軍事拠点として重視した米軍は、基地建設のため土地を次々と接収。農地や宅地を失った住民の生活困窮と人口増加への対策として、琉球政府は南米ボリビアへの計画移民を促進。1954年以降、3000人以上が海を渡った。ペルー、ブラジルなどへの移民もいた。琉球政府は住民の自治組織とされたが、行政主席の任命権や立法の拒否権などは米軍の統治機構である米国民政府が握っていた。
  ◇
 沖縄の本土復帰から今年で五十年になる。米軍統治下にあった人々は、基地のない島と平和憲法のもとへの「復帰」を渇望したが、いまも「本土並み」の願いは実現していない。それでも、沖縄の声を地域でつなぎ、ともに未来を描こうとする人々がいる。京浜工業地帯がある川崎・横浜を中心に、沖縄にルーツをもつ人々とともに発展してきた神奈川の地から、わたしたちの「島」のあしたを考える。

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