<あしたの島 沖縄復帰50年>(3)何をするのか知らないまま少年ゲリラ隊「護郷隊」に従軍…短歌と絵に託す思いは

2022年1月4日 07時26分

「生き残ったのは運が良かったから」と話す平良さん=厚木市で

 沖縄県民の四人に一人が亡くなった沖縄戦では、地元の少年を集めたゲリラ隊「護郷(ごきょう)隊」が戦場に送られた。沖縄県大宜味村出身の平良邦雄さん(93)=厚木市=はその一人で十六歳で召集され、生き抜いた。およそ七十七年を経て記憶を後世に残そうと、三十一文字と絵に託す。
 遥(はる)かなり爪痕深し恩納岳 年は弱冠十六だった
 護郷隊は、正規の軍隊とは別にゲリラ戦を展開したり、敵の軍事施設を爆破したりする「遊撃隊」の秘匿名。大本営は沖縄本島で十五~十八歳の少年らを集めて第一、第二護郷隊を編成した。平良さんは同年三月に召集され、第二護郷隊に入った。「地元にいた若い生き残りはみんな引っ張られた。何をするのか、全く知らなかった」
 四月一日に米軍が本島の西側から上陸。平良さんは召集後一カ月ほど爆弾の作り方や銃剣術など訓練し、石川岳や恩納岳の戦闘に加わった。米軍の戦車砲に日本軍が機関銃で応戦する中、米兵が逃げた後に落ちている手りゅう弾や銃、食料を拾って陣地に持ち帰った。米兵の遺体も初めて見た。「顔を見たら、(サイドを短く刈り上げた)GI髪をしていて、年は同じくらいの青二才。戦争で死んでいく悲しさ、痛みを感じた」

恩納岳から見た、特攻機が出撃する様子を描いた絵

 斥候(せっこう)はぬき足さし足身はふるえ 硬直のまま足すくむなり
 斥候とは敵情や地形などを探る兵士や部隊のこと。第二護郷隊は恩納岳を拠点にゲリラ戦を展開。平良さんは戦車を爆破するため、警戒兵と指導兵、弾薬手の三人一組で万座毛に向かった。最年少の平良さんは最も危険な弾薬手にされ、十キロある弾薬をかつぎ、敵の近くに忍び寄って弾薬に火を付けてさっと戻った。不発に終わり、戦車が弾薬を踏みつぶして通り過ぎた。
 先輩兵二人は先に逃げてしまい、一人残された平良さんは米軍の照明弾が次々と打ち上がる中、地雷を避けて田んぼに体を沈めながら命からがら恩納岳に戻った。「照明弾が上がると、動いているネズミの姿が分かるぐらい明るかった」。陣地にたどり着くと、全身が泥だらけで目だけが白くぎょろっと見えたようで「君は誰だ」と驚かれた。
 護郷隊には、米軍の北上を阻止するため橋を爆破する任務もあった。結果的に、戦火を逃れて避難する住民を足止めすることにもなったという。「戦車を止めようと、アダンの木や石ころを道路に転がしたりもした。今思うと日本の戦争はちゃちなもんだね。アメリカは笑っていただろうよ」
 赤赤ともゆる弾の火金武の空 戦火の花火友をたたえる
 米軍が建設していた金武飛行場の爆破に向かったこともある。この時は仲間の少年兵が爆破に成功し、平良さんはその様子を山中から眺めた。「弾薬倉庫が燃えて、ばかんばかんと、あちこち花火みたいだった。先を越された、やったなーとうれしい気持ちだった」。少年らは建設現場に潜入して米軍の手伝いをしながら中の様子を調べ上げ、攻撃に至ったという。
 
 米軍は無敵上陸思うまま 抵抗もできず眺め見るのみ
 各地から敗残兵が集まった恩納岳に、米軍は艦砲射撃の雨を降らせた。山中に潜んでいると、「弾が葉っぱをこする音」がひっきりなしに聞こえた。山頂付近で双眼鏡で監視していた時、鉄砲を逆さ向きに肩に担いで笑いながらゆっくりゆっくり歩いてくる米兵が見えて「憎らしくて憎らしくてたまらなかった」。
 平良さんは感染症の赤痢にかかり、服が血で染まった。赤痢で動けなくなり、そのまま死んだ仲間もいた。
 鉄砲はただれし足の命杖 想像ぜっする痛みの辛さ
 護郷隊は六月二日に恩納岳撤退を始め、平良さんも故郷を目指した。同じ靴をはき続けた足はただれ、鉄砲をつえにして歩いた。仲間がひもじさに耐えかねて芋を掘りに畑に向かったところ、待ち伏せていた米兵に撃たれて亡くなった。平良さんは足が痛くて芋を掘りに行けなかったために命が助かった。
 収容所でしばらく過ごし、帰郷。二十四歳で本土に渡った。相模原市の米軍基地で働いた後に都内の測量会社に入り、結婚してひとり息子を育てた。本土復帰後、故郷に帰ることも考えたが、「後ろを振り向きたくない」と戻らなかった。
 護郷隊千一人のうち百六十人が戦死した。生き残った隊員も、秘密部隊だったため軍人恩給などは一切なかった。「ぼくたちは操り人形だった」と何度も口にした。「どうしたら戦争が終わるかなんて考えられず、目の前のことしか考えられなかった」。ひたすら上官の命令に従うしかなく、「命令はしょっちゅう変わった」という。
 その記憶を短歌に詠み、絵に描くのは―。「みんな戦争といえば、B29が爆弾を投じたことしか知らない。関心を持ってほしい」(石原真樹)

<沖縄戦> 太平洋戦争末期の1945年3月26日、米軍が沖縄・慶良間諸島に上陸して始まった地上戦。4月1日に本島に上陸し、空襲や艦砲射撃など「鉄の暴風」と呼ばれる猛攻撃を加えた。旧日本軍は首里城地下に総司令部を置き、6月23日、第32軍の司令官牛島満陸軍中将らの自決により組織的戦闘が終わったとされる。その後も局地戦は続き、現地の日本軍の部隊が降伏調印したのは終戦翌月の9月7日。日米双方で計20万人超が死亡し、うち一般住民は推計約9万4000人。

  ◇
 沖縄の本土復帰から今年で五十年になる。米軍統治下にあった人々は、基地のない島と平和憲法のもとへの「復帰」を渇望したが、いまも「本土並み」の願いは実現していない。それでも、沖縄の声を地域でつなぎ、ともに未来を描こうとする人々がいる。京浜工業地帯がある川崎・横浜を中心に、沖縄にルーツをもつ人々とともに発展してきた神奈川の地から、わたしたちの「島」のあしたを考える。

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