川崎の野宿者が語った沖縄戦の記憶 オバマ大統領への手紙「基地は海が汚れる」<あしたの島 沖縄復帰50年>(5)

2022年1月6日 07時09分

沖縄出身者からの聞き取りに合わせ、ホワイトハウスへの署名はがきを案内する川副さん(左)=2014年3月、川崎市川崎区で(川崎野宿者聞き取りチーム提供)

 「川崎南部にある沖縄コミュニティーは、野宿者の中にも生きている」
 こう話すのは、川崎市内で三十年近くホームレスの巡回支援をしてきた水嶋陽(あきら)さん(63)。支援仲間の川副格(かわそえただし)さん(53)と八年前から、二百三十人余りの沖縄出身者たちの「ライフヒストリー」を、聞き取ってきた。「誰も拾っていない声だった。川崎に来て住民や事業主とどうつながり、助け合ってきたのか。解き明かしたいと思った」と語る。
 沖縄県人が職を求め、川崎に移住し始めたのは大正初期。戦後も京浜工業地帯には、貧しい沖縄から労働者が集まってきた。「川崎の野宿者の一割は、沖縄の人が占めている印象。アルコール依存で亡くなった人も少なくない」。ただ、地元のつながりが助けになる例があったとみている。「沖縄出身者同士が、路上で酒を飲み、職場が提供されることもあった」
 二〇一三年、沖縄出身者を集め、ドキュメンタリーを見て懇談する「沖縄映画会」を開催。帰沖歴や沖縄戦の記憶など、八十項目以上のアンケートをつくり、聞き取りを始めた。

沖縄出身者から聞き取った内容をパソコンでデータベース化する水嶋さん=同区で

 「俺なんか艦砲射撃の生き残り。木に登って見よったですよ。米軍の船からの艦砲射撃がひどかった」。一九四五年の沖縄戦当時、八歳だったという名護市出身の男性の証言だ。
 沖縄戦の前年に生まれたという別の男性は「俺は(逃げた場所から)追い出されたと聞いている。赤ん坊だから泣き声が(問題になって)ね。口を押さえられて」と淡々と語った。「国民を守るはずの日本の兵隊が、沖縄の人間に『出て行け』と言う。人間ってのは、われかわいさでね。戦争はケダモノ以下です」
 米軍統治下の沖縄で民衆が車両を焼き払うなどした七〇年の「コザ暴動」に加わったという男性もおり、「銃剣を前につけて脅かしながら進んでくる、米軍が。おもしろくなかった」と証言。当時は二十代。「パトカーやバスもひっくり返した」と生き生きと語った。
 二〇一四年にオバマ米大統領(当時)宛てに、名護市辺野古への基地移設断念を求めるはがきを送る市民運動が起きると、野宿者たちも「基地は海が汚れる」などと共感し、三十人が参加した。「住所のない野宿者が署名をし、ホワイトハウスに声を届けた。みんないい顔してたよ」と水嶋さんは笑う。
 聞き取りは、現在も続行中だ。証言を冊子にまとめ、この春にも発行するつもりでいる。
 失敗を重ねた人生を語ることは痛みも伴う。何度も話を聞きに行って「面倒くさい」と怒られたこともあるという。それでも多くの野宿者たちから、最後には感謝を受けてきた。川副さんは言う。「人生を話せたことで楽になって、『俺、頑張ってきたよな』と、肯定できるようになるみたい。記録として残す以上に、聞き取ってきたかいがあると感じる」(安藤恭子)
  ◇
 沖縄の本土復帰から今年で五十年になる。米軍統治下にあった人々は、基地のない島と平和憲法のもとへの「復帰」を渇望したが、いまも「本土並み」の願いは実現していない。それでも、沖縄の声を地域でつなぎ、ともに未来を描こうとする人々がいる。京浜工業地帯がある川崎・横浜を中心に、沖縄にルーツをもつ人々とともに発展してきた神奈川の地から、わたしたちの「島」のあしたを考える。

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