<谷中新聞>霊園と共に152年 渋沢も訪れた花店 苦境乗り越え再起

2022年1月12日 07時01分

明治初期の創業当時の風情を残す花店「花重」=いずれも台東区で          

 台東区谷中の谷中霊園の隣に、創業百五十二年の花店「花重(はなじゅう)」がある。明治初期の風情がただよう木造二階建ての店舗は、国の有形文化財にも登録されている。経営難で一時閉店に追い込まれたが、四代目店主の中瀬いくよさんは地元企業のバックアップを受け、再起。「歴史ある建物と伝統技術を守りたい」と奮闘している。
 徳川慶喜や渋沢栄一、横山大観など多くの著名人が眠る谷中霊園。花重は霊園開園と同時期の一八七〇(明治三)年、中瀬さんの曽祖父が花問屋として創業。七七年に現在の店舗を建てた。
 創業時から墓参り用の供花を手掛け、著名人の関係者からは一対の竹筒に生花を挿す「筒花」をよく頼まれた。晩年の渋沢も慶喜の命日前に店を訪れ、筒花を注文したという。
 三代目となった中瀬さんの父親・故関江重三郎さんが事業を拡大し、一九六〇年代後半以降の国内でのフラワーデザイン普及にも貢献。フローリスト養成学校を立ち上げ、多くの技能者を輩出した。

お供え用の花束を作る4代目店主・中瀬いくよさん

 中瀬さんが四代目を継いだのは二〇〇八年の父親の死去後で、五十代のころ。自身は一九七〇年代に米国で修業を重ね、帰国後はフラワーアーティストや講師として活躍してきたが、家業は繁忙期の手伝いしか経験がなかった。「もともと霊園のお客が中心の店。基本に立ち返ろう」。記憶の中の父親のやり方や文献を頼りに、筒花や卓上に花を装飾する「じかもり」などの伝統技術も磨いた。
 だが先代の頃からの借金がかさみ、経営が悪化。二〇一六年ごろには十数人いた社員を一斉解雇した。経営は夫が担い、中瀬さんは講師を続けながら店で花を生けていたが、二〇年四月に夫が急死。やむなく、同年六月、歴史ある花重は店を閉じた。
 だが、父親との約束が頭から離れなかった。明治期の建物を残し、伝統技術を伝えなさい−。知人からの激励も受け、「続けることは宿命」と思い直した。
 知人の働きかけもあり、地元の不動産関連会社が「歴史ある土地と店を守ろう」と、同年十月に新会社を立ち上げて花重の経営を受け継ぐことに。中瀬さんは従業員となり、引き続き四代目店主として店を切り盛りすることになった。

中瀬さんが手掛けた「じかもり」の作品=花重提供

 店舗の建物は一月末から耐震化などの改修を始めるが、外観はそのまま生かす。「ずっと先祖に守られている気がするんです」と中瀬さんは店を見回した。
 娘やアルバイト三人とともに営業を続けながら、フラワースクールの再開も目指す。「伝統を受け継ぎながら、今の世の中に合うことをやっていく。新しい形でスタートし、すてきなアレンジで多くのお客さんに喜んでもらいたい」

◆谷中

 台東区の北西部、上野桜木1・2丁目と谷中1〜7丁目周辺を「谷中地区」と呼ぶ。戦災を免れたため、70以上の寺社が並び、狭い路地や坂道が入り組む昔ながらの街並みが残る。荒川区との境にあるレトロな「谷中銀座商店街」は観光スポットとして人気。
 ◇
★寺町ゆえに、江戸時代は仏具を手掛ける職人が多く暮らした。明治期に上野に東京芸術大の前身の美術・音楽学校ができると、美術品の梱包(こんぽう)や設営など、美術関連の仕事に転向する職人も。「芸術家を育てる街」といわれてきた。
★街中に猫が多いことでも知られる谷中地区。谷中2の三浦坂沿いには、天寿をまっとうした猫をまつる「ねんねこ神社」=写真=がある。地域で親しまれた猫をしのび、お参りに訪れる人が絶えない。

◆編集後記

 花重には生前の横山大観夫妻や、愛犬を連れた彫刻家・朝倉文夫もよく訪れていたという。花重の建物調査をした「たいとう歴史都市研究会」によると、建築時から同じ商売を続ける明治期の建物は希少。時代のうねりを見守ってきた証人と言えるのかもしれない。
 今春に花重はリニューアルし、夏には運営会社が裏手にカフェも開く。老舗花店がどんな新たな歴史を紡いでいくのか、楽しみだ。
文・太田理英子/写真・隈崎稔樹、太田理英子
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