姿現す幕末期の“水のトンネル”「胎内堀」 国分寺、都内初の発掘調査

2022年1月14日 07時08分

「中藤新田分水」の調査現場で発掘された「胎内堀」の一部。江戸末期に作られた水路で玉川上水から生活用水が流れていた=いずれも国分寺市西町で

 江戸時代に多摩川の水を市中へ届け、住民の生活を支えた玉川上水。その分水の一つで国分寺市を流れていた「中藤新田分水」の発掘調査で、幕末に造られた素掘りのトンネル「胎内堀(たいないぼり)」が見つかった。胎内堀の発掘調査は都内初。トンネルを掘って地下に水を流したのは、ある「事件」がきっかけだった。
 発掘場所はJR国立駅から約二キロ北の同市西町四丁目付近。「ハケ」と呼ばれる国分寺崖線沿いにあり、雑木林や畑の緑が残る一方で、住宅や団地も立ち並ぶ。市教育委員会は昨年秋に調査を開始。レーダー探査で地下の空洞を確認し、約五十メートル間隔で三カ所を発掘したところ、十一月に胎内堀が姿を現した。
 市教委に案内を依頼し、最も南側の調査地点に、はしごを伝って下りてみた。地表近くの土には廃材が埋まっているが、下の方は薄茶色のきれいな硬い土で、旧石器時代の地層という。底までの深さは約三メートル。重機のない時代、手作業で掘り抜いたことを思うと、当時の苦労がしのばれる。

「中藤新田分水」の発掘現場(手前)。用水は後方の林方向へと続く

 トンネルは高さ、幅とも約一・三メートル。天井はアーチ状、底は平らになっており、断面を例えるとキノコの形。地域に残る古文書には「三尺四方」と記され、調査前は一辺約九十センチの正方形と考えられていたが、実際はもっと大きかったことが分かった。市教委ふるさと文化財課の学芸員寺前めぐみさん(38)は「土の圧力に負けないよう強度を高めるためにアーチ状にしたのでしょう」と説明してくれた。地上に戻ると、崖下に並ぶ住宅の先に富士山がくっきりと見えた。

調査現場で発掘された、昭和にコンクリートで作られた合掌造りの水路

◆別の村に水奪われ 全長1キロ手掘り

 一帯は江戸時代に切り開かれ、西町四〜五丁目付近は中藤新田と呼ばれていた。現在の武蔵村山市にあたる中藤村の人たちが移り住んだとされる。幕府による江戸上水の公式記録「上水記」によると、中藤新田分水は一七二九(享保十四)年に開削された。深さ約三十センチ、幅約二十センチで、当初は上部が覆われていない水路「開渠(かいきょ)」だった。
 多大な労力を必要とする胎内堀が造られた経緯はこうだ。幕末期、近くの別の村の分水工事が中藤新田分水と交差してしまい、水が流れなくなる事態が発生。問題解決のため、一八六八(慶応四)年、別の村の分水の下を通す形で、三カ月かけて全長約一キロを掘る工事を行ったとされる。
 今は胎内堀に水は流れていないが、昭和三十年代まで地域の生活用水に使われてきた。「ホリヌキ」と呼ばれる地上から出入りするための穴があり、毎年春には住民による掃除「ヌマサライ」が行われていた。近くに住む中藤伸弥さん(80)は「中に入って手作業で掃除をしたものです。飲み水にも使い、村で大事にしてきた」と懐かしんだ。近くには明治創業のしょうゆ醸造所跡があり、近年まで醸造が続けられるなど、胎内堀の水は地域の経済発展も支えていた。
 発掘調査は市に寄付された約千平方メートルの緑地整備に伴って行われた。胎内堀は劣化を防ぐためいったん埋め戻されたが、市教委は調査で得た三次元データなどを生かして一帯の保存や活用を検討する方針だ。寺前さんは「地域の歴史を知ることができる貴重な文化財」と期待する。
 文・佐々木香理/写真・松崎浩一
 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。

関連キーワード


おすすめ情報

TOKYO発の新着

記事一覧