<よみがえる明治のドレス・15>明治35年、大礼服で初の参内 上杉伯爵夫人兼子の喜び

2022年1月19日 07時07分

上杉茂憲、兼子夫妻の大礼服

 病気を口実に、新年拝賀の招待を断り続け、明治三十五(一九〇二)年になって初めて大礼服(マント・ド・クール)を着て参内した伯爵夫人がいた。上杉茂憲(もちのり)夫人の兼子で、当時の有名呉服店「白木屋」(現在の東急百貨店)に作らせた大礼服の費用は上杉家の衣料費の実に二・五年分。高額な宮廷ドレス調達に苦労の末、伯爵家としての面目をほどこす喜びの心情も垣間見える。
 米沢藩歴代藩主ごとに編さんされた『上杉家御年譜<茂憲公>』によると、茂憲、兼子夫妻が新年拝賀のために皇居・宮殿に参内したのは明治三十五年元旦で、「奥様の新年御拝賀は本年を以て嚆矢(こうし)とす」とある。
 この時に兼子が着用したドレスは、真珠色にピンクのバラの小花が刺しゅうされた大礼服で、ボディス(上衣)とスカート、トレイン(引き裾)、ケープ、ベルト、靴など大礼服関連の一式は上杉博物館(山形県米沢市)に所蔵されている。

上杉兼子の大礼服トレイン

 兼子の参内が明治三十五年になったのはなぜか。
 「新年拝賀や観桜会などのご招待はたびたびありましたが、兼子夫人は所労(病気)を理由に、欠席を続け、当主の茂憲のみの参内となっていました。それは、兼子夫人の大礼服を経済的に準備するのが困難だったからと考えられます」
 上杉博物館学芸員の角屋由美子さんは、事情をこう推察する。
 参内の前年の一九〇一年の上杉家の臨時費歳出に「奥様御礼服費一〇二八円八一銭」の記載がある。この礼服が兼子が新調した大礼服であり、費用は米沢と東京の邸宅で使う上杉家の衣料費の二・五年分に相当した。
 だが、大礼服の調達に四苦八苦していたのは上杉家だけではない。宮廷ドレスの導入初期の段階では、購入先の確保もままならなかったが、一八八七(明治二十)年一月の美子(はるこ)皇后(明治天皇の后(きさき))の洋装推奨の「思召書」を踏まえて国産服地を活用したドレス製作が普及した以降も、「風邪」などを口実に新年拝賀を欠席する華族夫人は少なくなかった。経済的に大礼服調達が困難だったからだ。
 上杉家のドレス資料で興味深いのは、大礼服を受注したのが当時、三越などと並ぶ呉服店だった東京・日本橋の白木屋だったことだ。同店の名前入りの大礼服収納箱があること、コルセットの縫い目に入れて固定する「ボーン(張り骨)」の取り付け方の粗雑さなど外国製との違いが見られることなどから、白木屋の仕立てとみられる。
 収納箱のレッテルには「地質は英仏独墺白(ベルギー)諸国よりの直輸入に係はり縫製は老巧なる妙手を以て正確信実に調進可仕候」と記されていた。外国服地を利用した高級品志向がセールスポイントだったとみられ、ドレスの布地は、朱子地や綾(あや)地などの紋織物・ダマスク模様のドイツ製だった。

白木屋の大礼服収納箱レッテル(いずれも個人蔵)

 一九六〇年代に上杉家の大礼服を調査した元米沢女子短期大学教授の徳永幾久さんは、同大紀要にこう記している。新年拝賀が実現した兼子の心情について「ようやく御参内なさる御喜び」と表現しつつ、「兼子夫人(当時四十三歳)の御年からは、若すぎると思われる娘らしい色とデザイン、土地の交換まで考えられた高価な材料、アクセサリー、そして格調高い型式、それは上杉伯爵夫人の大礼服としてそなえなければならない要素だった」と考察した。
 こうした先行研究と資料保存には意義がある。日本女子大名誉教授の佐々井啓さん(西洋服飾史)は「徳永さんの調査の特徴は、使用した素材の織り方や色彩、重量などを詳細に記録していることである。この詳細な調査があれば展示が困難な服飾遺品のレプリカを製作することができる。その結果貴重な文化遺産の公開と伝承が可能となるだろう」と指摘している。
 文・吉原康和
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