<再発見!伊豆学講座>狩野茂光と子どもたち 頼朝股肱の臣として活躍

2022年1月23日 07時18分

狩野城跡=伊豆市で

 伊豆市本柿木(ほんかきぎ)と青羽根の境の標高一八〇メートルの小高い山に狩野城がある。平安時代から室町時代に存在した山城で、平安期からの伊豆国豪族、狩野氏の本拠地であった。
 狩野氏は初め、日向館(ひなたやかた)(現在の伊豆市日向、日向公民館付近)を居館としていたが、狭い上要害とならないので柿木に移転したとされる。
 狩野氏は藤原南家為憲(ためのり)流(藤原氏の一系譜)の在庁官人で、代々「介(すけ)」(官吏の一つ)を称した。治承四(一一八〇)年、源頼朝の挙兵に際しては、早くから帷幄(いあく)(作戦を練る本陣)に参画し、狩野氏の「祖」で茂光(もちみつ)(工藤茂光)は子の親光(ちかみつ)とともに頼朝の股肱(ここう)(頼りになる補佐役)として活躍した。
 同年八月、石橋山の合戦に際して七十余歳で自刃した。函南町大竹神戸坂の中腹にまつられている二基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は茂光と北条宗時(北条政子、義時の兄)の墓と伝えられる。
 茂光はほかに子が宗茂、行光、維光(これみつ)らに加え、頼朝に従った田代信綱の母もいる。「吾妻鏡」によると、宗茂は頼朝の挙兵に参画しなかったが、平清盛の息子重衡(しげひら)や頼朝の異母弟で謀反の疑いをかけられた源範頼(のりより)を預かり、監視役を務めた。
 建久四(一一九三)年三月、下野国那須の狩猟には、行光・宗茂・宇佐美祐茂・仁田忠常ら二十二人で随行し、同年五月、富士の巻狩(まきが)りの準備のため、北条時政に随行して先発した。同年八月十七日、源範頼は富士の巻狩りでの曽我兄弟の仇(あだ)討ち以後、頼朝に疑惑を持たれ、家人当麻(たいま)太郎が頼朝の寝所に潜んでいたところを捕らえられたので、宗茂や祐茂らに預けられた。
 元久二(一二〇五)年、有力御家人だった畠山重忠討伐の際には、宗茂や祐茂らが先陣を務めており、宗茂はこの頃、入道(仏道に入る)したらしい。「承久記」によると、承久の乱(一二二一年)の記述にも別名「狩野介入道(すけにゅうどう)」となっていて、五月二十二日の五陣に筑後太郎左衛門(八田知重)や天野左衛門尉(政景)、介入道らが加わり、伊豆国から伊東左衛門尉(祐時)や宇佐美五郎兵衛、同与一(祐村)が参戦した。
 嘉禄二(一二二六)年十月十八日、鎌倉竹御所造営の作事奉行として定礎式を行った(「吾妻鏡」)という記述を最後に、宗茂の消息は絶えている。
 宗茂の弟の親光(ちかみつ)は「保元物語」に「伊豆では狩野工藤四郎親光、同五郎親成」とあり、治承四(一一八〇)年十月二十三日に、祐茂らとともに源頼朝から勲功を賞されている(「吾妻鏡」)。狩野介・工藤介とも称し、父同様在庁官人であったと思われる。
 頼朝に従い、父茂光は石橋山の合戦で討ち死にしたが、狩野氏はその後も頼朝の元で働き、治承五(一一八一)年には頼朝の命により和田義盛や岡部忠綱らと遠江の安田義定を援護して、平氏方と戦った。
 寿永三(一一八四)年には頼朝の側近として鎌倉にとどまっていたが、途中から信綱とともに西下し、五百騎を率いて義経の軍に合流。文治五(一一八九)年、奥州征伐で討ち死にした。
 平家没落以来、三百年平穏無事と思われるが、詳細不明である。三嶋神社文書のうちに長禄二(一四五八)年と推定される八月十日、「力石右知書状(ちからいしすけともしょじょう)」が三嶋神社東大夫に宛てられ、狩野庄六郷(現在の伊豆市の一部、伊豆の国市南部)の一つ、三福郷(伊豆の国市三福など)は狩野道一の支配を受けることになり、三嶋社領ではないことを伝えている。再び狩野氏が狩野城とともに登場している。(橋本敬之=伊豆学研究会理事長)

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