「亡父を助けてくれた軍人はどこに?」手掛かりを探す長女 戦禍で輸送船沈没、直前に救助

2022年1月24日 06時00分

1935年の建造直後に行われたテスト航行時に撮影されたとみられる青葉山丸=商船三井提供

 「あの時、父を助けてくれた軍人は誰なのか」。太平洋戦争末期、フィリピンで米軍の攻撃を受けて沈んだ輸送船の乗員だった父は、沈没直前に旧日本陸軍の軍人に救助され、一命を取り留めた。父は既に他界したが、娘が「命の恩人」の消息を捜し続けている。「自分はその人がいなければ生まれていなかったかもしれない。ご本人がもし亡くなっていたとしても、墓前やご遺族に父の分もお礼を伝えたい」と話す。(小松田健一)

◆1944年末、揚陸作業中に米軍機の空襲

東京高等商船学校時代の故・川越近二さん=橋本弥寿子さん提供

 「恩人」を捜すのは、東京都北区の橋本弥寿子さん(69)。
 父の川越近二さん(享年91)は1944年に東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を卒業し、三井船舶(現・商船三井)に入社。20歳で貨物船の青葉山丸(8811トン)に三等航海士の軍属として乗り込み、外地での輸送作業に従事した。
 商船三井によると、青葉山丸は35年に建造され、日米開戦直前の41年9月に陸軍に徴用された。日米両軍が激しい戦闘を続けていたフィリピンに兵士や物資を輸送するため、44年12月30日にフィリピン・ルソン島中西部のサンフェルナンド港で揚陸作業中、米軍機の空襲を受けた。
 川越さんが生前に橋本さんへ語った話では、空襲時は船長とともに船団会議のため船を離れていたが、機密保持のため航海日誌を処分しようと青葉山丸に戻った。

◆恩人の名前や所属は不明

晩年の川越近二さん=橋本弥寿子さん提供

 船が炎に包まれる中、ぬれたバスタオルで体を包んで脱出の機会をうかがっていたところ、陸軍中尉が乗ったボートが近づいてきて救出された。その後船は沈んだ。中尉の名前や所属部隊などは不明という。
 2015年に川越さんが亡くなった後、橋本さんは親族から、戦後に郷里・鹿児島県の地元紙に父の経験が記事になったと教えられた。「手掛かりがあるかもしれない」と国立国会図書館に通って調べたが、該当記事は見つけられなかった。青葉山丸が所属していた輸送船団が運んだ陸軍部隊の一員だった可能性もあるが、詳細は分からない。
 川越さんは戦後も商船三井に勤務し、タンカーなどの船長を務めた。退職後も75歳まで横浜港で船を誘導する水先案内人として海の安全に尽力した。

◆「民間船の戦争被害も伝えていきたい」

 体験を話すようになったのは晩年。橋本さんは「父は『中尉さんが船に乗せてくれたから帰ることができ、孫やひ孫に囲まれて幸せだ』と振り返っていた。詳しい話を聞きたかったのだけど」と話す。
 「子どもの頃、父が夜にうなされているのを何回か見た。つらい体験だったのだと思う。『戦争はだめだよ』とよく話していたのを覚えている。中尉さんのおかげで生還し、長い人生を船乗りとして全うできたのは幸福だった」
 徴用された民間船の船員は多くが戦火の犠牲になった。橋本さん自身は平和を訴える市民活動にも取り組んでいる。「父の体験がエネルギーになっている。あまり知られていない民間船被害のことも伝えていきたい」と決意を新たにする。
 ◇
 情報は橋本さん=電080(4075)2884=へ。

太平洋戦争中の船舶被害 太平洋戦争が始まると、日本の陸海軍は兵士や武器、物資の輸送、内地沿岸での監視業務に民間の商船や漁船を多数徴用した。戦局悪化で制空権、制海権を失うと、十分な武装や軍艦の護衛がない徴用船は米軍の標的となった。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、失われた船は7240隻。戦死した船員は約6万人で、総人員に対する死亡率は43%と陸軍(20%)、海軍(16%)に比べて大幅に高い。人員不足を補う目的から商船学校などの養成期間が短縮された結果、未成年の犠牲者が3割と高くなっている。

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