吉原花街 面影探レ! 遊女のげた、供養の観音像…

2022年1月27日 07時09分

江戸後期に浮世絵師・歌川広重が吉原遊郭を描いた「東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図」=東京都江戸東京博物館所蔵

 江戸時代から昭和中期まで「吉原遊郭」があったことで知られる台東区千束。現在放送中のアニメ「鬼滅(きめつ)の刃(やいば)遊郭編」など漫画やアニメに登場することが増え、近年は若年層の観光客が多いという。今は風俗店や民家が混在する地に、日本最大級とされた華やかな色里の面影はあるのか−。地元ガイドの案内で、跡地を歩いた。

大門跡近くの「見返り柳」について話す不破利郎さん。「遊郭帰りの客が後ろ髪を引かれる思いで振り返ったとの逸話がある」=いずれも台東区で

 「江戸時代は田に囲まれ、遊郭だけ明かりがこうこうとともっていた。長唄や三味線の音などが風に乗って聞こえ、行ってみたいという気持ちをかき立てたようです」。ガイドを務めるのは、奥浅草観光協会の専務理事・不破利郎さん(60)。千束四でビジネスホテルを営むが、かつては同じ場所で祖父が妓楼(ぎろう)「三笠楼」を営んでいたという。
 ツアーは、遊郭唯一の玄関口「大門(おおもん)」跡地へと続くS字の道路からスタート。道路の形は遊郭時代の名残で、大通りから遊郭を見せないためだったとされる。当時S字道路の入り口は坂道で「ここで身なりを整えたので、衣紋坂と呼ばれていました」。脇道には客が顔を隠すための編みがさ屋などが並んでいたという。
 不破さんによると、遊郭は東京ドーム二個分ほどの広さ。地図で見ると敷地は斜めに傾いていて、「どこの妓楼で寝ても北枕にならない」らしい。敷地内は現在より約二メートル高く、堀で囲われていたという。堀があった場所の道路脇に石垣の一部が残る。

大通りから遊郭が見えないようにS字カーブを描く「衣紋坂」

 大門があったのは、現在の浅草署吉原交番付近。ここから南西にメインストリート「仲之町通り」が延びる。今は両側に飲食店や風俗店が立つが、かつては茶屋が並び、交差する横の通りに妓楼が軒を連ねた。
 通りを進むと、角にたばこ店「大黒屋」が見える。明治期から遊郭廃止まで、げた屋だったという。遊女に作った高さ二十五センチの黒塗りのげた、たたみ底の室内履きが飾られている。店主の菅野千代さん(86)は、「店には日本髪に着物姿の遊女が来ていた。四季ごとに通りの植木や店ののれんが替わり、華やかな街でしたよ」と幼少期の街の様子を教えてくれた。

遊郭内のげた屋だった大黒屋に残る遊女のげた

 不破さんによると、吉原は、映画「吉原炎上」で知られる明治末期の火災を含め、二十九回の大火に見舞われた。一九二三(大正十二)年の関東大震災では、火の手から逃れようと、近くの池に飛び込んだ大勢の遊女が落命。遊女らを供養するために建てられた吉原弁財天内の観音像に手を合わせ、ツアーを終えた。
 「子ども時代、周りの大人は吉原がどんな場所だったか教えたがらなかった」と不破さん。自ら資料を調べ、遊郭時代の町名が今も町会名として残っていることなど、街の歴史を知った。江戸時代の和紙職人が紙を冷ます間に吉原を見物したことから「冷やかし」という言葉が生まれるなど、吉原発祥の言葉も多いという。
 不破さんは、街の歴史を語り継ぐ後継者、施設をつくることを今後の課題に据える。「男の遊び場だっただけでなく、歌舞伎など江戸の文化が花開いた街でもある。吉原の歴史、魅力を発信していきたいんです」
<吉原遊郭> 1657(明暦3)年、日本橋から現在の台東区千束に移転した。最盛期は3000人近い遊女がいたとされる。1958年の売春防止法施行で廃止された。
 文・太田理英子/写真・木口慎子
 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。

関連キーワード


おすすめ情報

TOKYO発の新着

記事一覧