昭和初期の「理想の居住地」同潤会荻窪分譲住宅、最後の1戸が取り壊しへ
2022年2月12日 07時27分
かつて東京・神宮前にあった同潤会青山アパートメント(現表参道ヒルズ)などを建てた同潤会が、大正の終わりから昭和初期にかけて、郊外で一戸建て住宅を分譲していたことはあまり知られていない。現存する建物はほとんどなく、杉並区に残る数少ない1軒も近く取り壊されることになった。風雪に90年以上耐えてきた「同潤会荻窪分譲住宅」の建物を見せてもらった。
JR荻窪駅から北に歩いて二十分弱。住宅街の中にひときわ古い一戸建てが現れる。この地域に唯一残る同潤会の分譲住宅だ。
玄関を入ると、奥まで廊下が続く。「家族の暮らしを重視した間取りです。廊下があることで、各部屋からほかの部屋を経ないで玄関や便所、湯殿、台所に行けます」。案内してくれた一般社団法人「杉並たてもの応援団」の田村公一さん(69)が言う。玄関と廊下の間の引き戸は、来客に奥を見せないためだという。
玄関横の窓は、上が三角になった五角形。「同潤会の建物でよく見かける形です」。建築費を安く抑える一方、少しでも見栄えをよくする意匠の工夫だ。
百四十五坪の敷地に、建面積約三十坪の平屋建て。玄関の横に八畳の洋間(客間)、和室の八畳、六畳、六畳、三畳(お手伝いさんの部屋)があり、今で言う5K。後に四畳半の洋室などが増築された。たてもの応援団は今、家を細部まで測量、撮影し、記録を残そうとしている。
家が分譲されたのは、昭和四(一九二九)年。周辺は農村地帯だったが、大正十二(二三)年の関東大震災で焼け出されるなどして、都心から多くの人々が移り住み、中央線一本で都心に通勤できる便利さもあって、徐々に会社員や軍人、官僚らが暮らす中流の住宅街へと変貌していった。
同潤会はここに「理想の郊外居住地」を作ろうと、四十五戸を販売。電気、ガスが供給され、昭和七年からは上水道も整備された。会の事業報告によると、販売前の「展覧会」に八千七百七十七人が訪れるなど「非常ナル好評」を博し、分譲時の競争率は二十五倍にもなった。
二代目の住人として、府立第三高等女学校(現都立駒場高校)の歴史教師だった井上正さん一家が暮らしはじめたのは、昭和六年。体が弱い娘清子さんのため、自然を求めて都心の青山から移り住んだ。
「母から、昔は南側に畑が広がり、タヌキが出たと聞きました。家の前は並木道だったそうです」。清子さんの娘(66)が話す。「広縁(幅広の縁側)に椅子を置いて庭を眺めるのが好きでした、サンルームみたいで。梅や柿がたくさんなりましたが、全部切られてしまうのが残念です」
建物は近く業者に売却され、取り壊し後の跡地には五軒の住宅が建つという。
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杉並たてもの応援団は三月〜五月に区立郷土博物館分館(天沼弁天池公園内)でパネル展示「杉並の同潤会・団地・住宅地」を開催、「井上邸」も紹介される予定。
<同潤会> 関東大震災の翌年、国内外からの義援金を基に、被災者のための住宅供給を目的に内務省が創立した財団法人。東京と横浜で(1)応急仮設住宅(2)庶民向け賃貸住宅(3)中流以上向けの鉄筋コンクリートのアパート(4)勤労者向けの一戸建て分譲住宅など、計1万1985戸を供給。昭和16(1941)年に住宅営団に業務を移管して解散した。
文・加古陽治/写真・内山田正夫
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